道元禅師 正法眼蔵 現代訳の試み

辨道話(1)

(べんどうわ)

諸仏如来(ショブツ ニョライ)、ともに妙法を単伝(タンデン)して、阿耨菩提(アノクボダイ)を証(ショウ)するに、最上無為(サイジョウ ムイ)の妙術あり。

諸々の仏たちは、皆共に優れた法を人から人へと相伝して、仏の悟りを証明してきましたが、この悟りを得るのに、最も優れた無為の法があります。

これただほとけ仏にさづけて、よこしまなることなきは、すなはち自受用三昧(ジジュユウ ザンマイ)、その標準なり。

この、ただ仏から仏へと授け伝えて、誤ることのない法とは、自受用三昧(今の自分と一つになること)であり、これがその標準の法なのです。

この三昧(ザンマイ)に遊化(ユゲ)するに、端坐参禅(タンザ サンゼン)を正門(ショウモン)とせり。

この三昧に遊ぶには、身を正して坐禅することが、その正しい法とされています。

この法は、人人(ニンニン)の分上(ブンジョウ)に、ゆたかにそなはれりといへども、いまだ修(シュ)せざるにはあらはれず、証せざるには、うることなし。

この自受用三昧の法は、すべての人々自身に豊かに具わっているのですが、それは修行しなければ現われず、証明しなければ得られないのです。

はなてば、てにみてり、一多のきはならむや。かたれば、くちにみつ、縦横(ジュウオウ)きはまりなし。

この法は、手放せば手に満ちるのです。その分量は多い少ないの域を越えています。語れば言葉は口に満ちて縦横窮まりありません。

諸仏のつねに、このなかに住持(ジュウジ)たる、各各の方面に知覚をのこさず。

諸仏は常に、この三昧の中にあって、見聞覚知の各方面に知覚を残すことはありません。

群生(グンジョウ)のとこしなへに、このなかに使用する、各各の知覚に方面あらはれず。

また人々が永久にこの三昧の中で使用している各々の知覚には、その方面が現れることはありません。

いまおしふる功夫辨道(クフウ ベンドウ)は、証上(ショウジョウ)に万法(マンボウ)をあらしめ、出路(シュツロ)に一如(イチニョ)を行ずるなり。

今ここで教える修行精進は、悟りの法の上に一切の存在を在らしめて、解脱のために一如の自己を行ずることです。

その超関脱落(チョウカン ダツラク)のとき、この節目(セツモク)にかかはらむや。

その自他を隔てる関を超えて脱落した時には、今までの教理の細目に頼ることはないのです。

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