辨道話(11)

「この仏法の相伝(ソウデン)の嫡意(テキイ)なること、一代にかくれなし。如来むかし霊山会上(リョウゼンエジョウ)にして、正法眼蔵 涅槃妙心(ショウボウゲンゾウ ネハンミョウシン)無上の大法をもて、ひとり迦葉(カショウ)尊者にのみ付法せし儀式は、現在して上界にある天衆(テンシュ)、まのあたりみしもの存(ソン)せり、うたがふべきにたらず。

「この仏法の相伝が、嫡子から嫡子へと伝えられたことは、釈尊のご一代に明らかです。釈尊が昔、霊鷲山(リョウジュセン)の法会(ホウエ)で、仏法の神髄、優れた悟りの心、無上の大法を、摩訶迦葉(マカカショウ)尊者ただ一人にお授けになった儀式は、現に天上界の天衆たちで、目の当たり見た者がいるのであり、疑うに足りません。

おほよそ仏法は、かの天衆とこしなへに護持するものなり、その功(コウ)いまだふりず。まさにしるべし、これは仏法の全道なり、ならべていふべきものなし。」

およそ仏法は、その天衆たちが永久に護持するものであり、その功徳は未だ変わることはありません。正に知ることです、この坐禅は仏法の全体であり、比べられるものはないのです。」

とうていはく、「仏家(ブッケ)なにによりてか四儀のなかに、ただし坐にのみおほせて禅定(ゼンジョウ)をすすめて証入(ショウニュウ)をいふや。」

問うて言う、「仏祖の家門では、なぜ行住坐臥(ギョウジュウ ザガ)の四儀の中で、坐だけを取り上げてその禅定を勧め、悟りに入ると言うのですか。」

しめしていはく、「むかしよりの諸仏、あひつぎて修行し証入せるみち、きはめしりがたし。ゆゑをたづねば、ただ仏家のもちゐるところをゆゑとしるべし、このほかにたづぬべからず。

教えて言う、「昔からの諸仏が、相次いで修行し悟りに入られた道は、熟知することが困難ですが、その理由を尋ねられれば、ただ仏祖の家門が用いてきたことが理由であると知りなさい。このほかに尋ねることは出来ません。

ただし、祖師ほめていはく、「坐禅はすなはち安楽の法門なり。」はかりしりぬ、四儀のなかに安楽なるゆゑか。いはんや一仏二仏の修行のみちにあらず、諸仏諸祖にみなこのみちあり。」

但し、祖師は褒めて、「坐禅は安楽の教えである。」と言いました。推察するに、行住坐臥の四儀の中で安楽なためでしょう。まして坐禅は、一人二人の仏が修行した道ではありません。すべての仏や祖師たちが、皆この道を用いてきたのです。」

辨道話(10)へ戻る

辨道話(12)へ進む

ホームへ