辨道話(17)

「嘗観(ショウカン)すべし、身心一如(シンジン イチニョ)のむねは、仏法のつねの談ずるところなり。しかあるに、なんぞこの身の生滅せんとき、心ひとり身をはなれて生滅せざらん。もし一如なるときあり、一如ならぬときあらば、仏説おのづから虚妄(コモウ)になりぬべし。

「よく観察しなさい、身と心は一如である、という主旨は、仏法が常に説いていることです。それなのに、なぜこの身が生滅する時に、心だけが身を離れて生滅しないのでしょうか。もし一如の時があり、一如でない時もあれば、仏の説は自ずから虚妄になるでしょう。

又生死はのぞくべき法ぞとおもへるは、仏法をいとふつみとなる。つつしまざらんや。

又、生死流転は除くべき法だと思うならば、仏法を厭う罪になります。慎まなければいけません。

しるべし、仏法に心性大総相(シンショウ ダイソウソウ)の法門といふは、一大法界をこめて、性相(ショウソウ)をわかず、生滅をいふことなし。

知ることです、仏法にある心性大総相(心の本性は、あらゆるものを包み込んだ平等の一心である。)の教えというのは、全世界を含めて、本性と形相とを分けることなく、生滅をいうこともないということです。

菩提涅槃(ボダイ ネハン)におよぶまで、心性にあらざるなし。一切諸法 万象森羅、ともにただこれ一心にして、こめずかねざることなし。

仏の悟り、煩悩の滅に至るまで、心の本性でないものはありません。すべてのものごと、あらゆるものは、皆ただこの一心であって、その中に含まれないもの、兼ねないものはないのです。

このもろもろの法門、みな平等一心なり、あへて異違(イイ)なしと談ずる、これすなはち仏家の心性をしれる様子なり。

このすべての教えが、「皆、平等の一心であって、少しも異なることはない。」と説いているのは、仏家が心の本性を理解している様子なのです。

しかあるを、この一法に身と心とを分別し、生死と涅槃とをわくことあらんや。

それなのに、この一つの法に於いて、身と心とを区別し、生死流転と煩悩の滅とを分けることがありましょうか。

すでに仏子なり、外道(ゲドウ)の見(ケン)をかたる狂人のしたのひびきをみみにふるることなかれ。」

我々は、すでに仏弟子なのですから、外道の見解を語る狂人の話を聞いてはいけません。」

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