辨道話(19)

とうていはく、「出家人は、諸縁すみやかにはなれて、坐禅辨道にさはりなし。在俗の繁務は、いかにしてか一向に修行して、無為(ムイ)の仏道にかなはん。」

問うて言う、「出家の人は、様々な世俗の縁を速やかに離れて、坐禅修行に障害はありませんが、在俗の多忙な人は、どのようにして一途に修行し、無為の仏道にかなうことができましょうか。」

しめしていはく、「おほよそ、仏祖あはれみのあまり、広大の慈門をひらきおけり。これ一切衆生を証入せしめんがためなり、人天たれかいらざらんものや。

教えて言う、「およそ仏や祖師方は、人々を哀れに思うあまりに、広大な慈悲の門を開いておかれたのです。これはすべての人々を悟らしめんがためなのです。ですから、人間界や天上界の中で、誰かこの門に入れない者がありましょうか。

ここをもて、むかしいまをたづぬるに、その証これおほし。しばらく代宗(ダイソウ) 順宗(ジュンソウ)の、帝位にして万機いとしげかりし、坐禅辨道して仏祖の大道を会通(エヅウ)す。

これについて古今を尋ねれば、その実証となる人は多いのです。例えば唐の代宗や順宗は、帝位にあって政務に多忙でしたが、坐禅修行して仏祖の大道を悟りました。

李相国(リ ショウコク) 防相国(ボウ ショウコク)、ともに輔佐(フサ)の臣位(シンイ)にはんべりて、一天の股肱(ココウ)たりし、坐禅辨道して仏祖の大道に証入す。ただこれ、こころざしのありなしによるべし、身の在家出家にはかかはらじ。

また李宰相や防宰相なども、共に補佐の臣としてお仕えする天子の家来でしたが、坐禅修行して仏祖の大道を悟りました。もっぱらこれは、志の有無によるものです。その身の在家出家には関係ありません。

又ふかくことの殊劣(シュレツ)をわきまふる人、おのづから信ずることあり。いはんや世務は仏法をさゆとおもへるものは、ただ世中に仏法なしとのみしりて、仏中に世法なきことをいまだしらざるなり。」

又この法は、深く物事の優劣をわきまえる人であれば、自ずから信ずるものです。まして世俗の務めは仏法を妨げると思う者は、ただ世の中には仏法が無いということだけを知って、仏法の中には世間の法がないことをまだ知らないのです。」

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