辨道話(24)

とうていはく、「西天(サイテン)および神丹国(シンタンコク)は、人もとより質直(シツジキ)なり。中華のしからしむるによりて、仏法を教化(キョウケ)するに、いとはやく会入(エニュウ)す。我朝(ワガチョウ)は、むかしより人に仁智すくなくして、正種(ショウシュ)つもりがたし。番夷(バンイ)のしからしむる、うらみざらんや。

問うて言う、「インドと中国は、人間がもともと正直です。中華という文化の開けた大国なので、仏法を教化するにしても、すぐに会得します。しかし、我が国は、昔から人に情けや智慧が少なく、正法の種子の広がりにくい所です。遠地の未開人のためであり、残念なことです。

又このくにの出家人は、大国の在家人にもおとれり。挙世(コセ)おろかにして、心量狭小なり。ふかく有為(ウイ)の功を執して、事相の善をこのむ。かくのごとくのやから、たとひ坐禅すといふとも、たちまちに仏法を証得せんや。」

又、この国の出家人は、大国の在家人よりも劣っています。世の人は皆 愚かで心は狭小です。深く世間の功利に執して、うわべの善を好んでいます。このような者たちが仮に坐禅したとしても、すぐに仏法を悟るものでしょうか。」

しめしていはく、「いふがごとし。わがくにの人、いまだ仁智あまねからず、人また迂曲(ウキョク)なり。たとひ正直(ショウジキ)の法をしめすとも、甘露かへりて毒となるぬべし。名利(ミョウリ)にはおもむきやすく、惑執とらけがたし。

教えて言う、「あなたの言うとおりです。我が国の人は、まだ情けや智慧が行き渡らず、人の心はねじけています。たとえ正しい法を教えても、甘露はかえって毒となることでしょう。名利には向かいやすく、迷執からは離れ難いのです。

しかはあれども、仏法に証入すること、かならずしも人天の世智をもて出世の舟航とするにはあらず。

しかしながら仏法を悟ることは、必ずしも人の世間的智慧をもって解脱の舟とするわけではありません。

仏在世にも、てまりによりて四果(シカ)を証し、袈裟(ケサ)をかけて大道をあきらめし、ともに愚暗のやから、癡狂の畜類なり。ただし、正信(ショウシン)のたすくるところ、まどひをはなるるみちあり。

釈尊が世に在りし時にも、手まりで頭を打たれて四果の悟りを得た人や、戯れに袈裟を着けた縁で大道を明らかにした人がいましたが、皆、暗愚な者、狂痴な者でした。しかしながら正しい信心に助けられて、迷いを離れる道を得たのです。

また、癡老の比丘(ビク)黙坐せしをみて、設斎(セッサイ)の信女(シンニョ)さとりをひらきし、これ智によらず、文(モン)によらず、ことばをまたず、かたりをまたず、ただしこれ正信にたすけられたり。

又、説法を請われた愚かな老僧が黙って坐っているのを見て、供養を設けた女性が悟りを開きました。これは智慧によるものでも、経文によるものでも、言葉を聞いたからでも、話を聞いたからでもありませんでした。ただ正しい信心に助けられたのです。

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