辨道話(25)

また釈教(シャクキョウ)の三千界にひろまること、わづかに二千余年の前後なり。刹土(セツド)のしなじななる、かならずしも仁智のくににあらず、人またかならずしも利智聡明のみあらんや。

また釈尊の教えが全世界に広まったのは、わずかに二千余年前後の間です。その国土はさまざまで、必ずしも情けや智慧のある国ばかりではなく、人も又必ずしも理智聡明の者ばかりではありません。

しかあれども、如来の正法、もとより不思議の大功徳力をそなへて、ときいたればその刹土にひろまる。人まさに正信(ショウシン)修行すれば、利鈍をわかず、ひとしく得道するなり。

しかしながら、如来の正法は、もともと不思議な大功徳力を備えていて、時至ればその国土に広まるのです。また人は、まさに正しい信心を起こして修行すれば、賢い人も愚かな人も区別なく、等しく悟りを得るのです。

わが朝(チョウ)は、仁智のくににあらず、人に知解(チゲ)おろかなりとして、仏法を会(エ)すべからずとおもふことなかれ。いはんや人みな般若(ハンニャ)の正種(ショウシュ)ゆたかなり。ただ承当(ジョウトウ)することまれに、受用することいまだしきならし。

我が国は、情けや智慧のある国ではありませんが、人の理解力が劣っていて仏法を理解できないと思ってはいけません。まして人は皆、悟りの智慧の種子を豊かに持っているのです。ただそれを会得することが稀なので、それを使用することがまだ出来ないだけなのです。

さきの問答往来し、賓主相交(ヒンジュ ソウコウ)することみだりがはし、いくばくか、はななきそらにはなをなさしむる。しかあれども、このくに、坐禅辨道におきて、いまだその宗旨つたはれず。しらんとこころざさんもの、かなしむべし。

これまでの問答は、自ら問うて又答えてと乱雑なことでした。どれほど花のない空に花を見させたことでしょう。しかしながらこの国は、坐禅修行に於いてまだその教えが伝わっていません。それを知ろうと志す者は悲しむことでしょう。

このゆゑに、いささか異域の見聞(ケンモン)をあつめ、明師の真訣(シンケツ)をしるしとどめて、参学のねがはんにきこえんとす。

 このために、少しばかり外国の見聞を集め、正法に明るい宗師の秘訣を記して、仏道を学びたい人に伝えるのです。

このほか、叢林(ソウリン)の規範および寺院の格式、いましめすにいとまあらず、又草々にすべからず。

この他の、禅道場の規範や寺院の規則については、今教える余裕はありませんし、又それらは、簡略に済ませるべきものではありません。

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