道元禅師 正法眼蔵 現代訳の試み

仏性 (1)

(ぶっしょう)

  釈迦牟尼仏 言(ノタマ)はく、
「一切の衆生は、悉く仏性
(ブッショウ)有り。如来は常住にして、変易(ヘンニャク)有ること無し。」

  釈尊の言うことには、
「一切の衆生(生きとし生けるもの)には、悉く仏性(仏の本性)が有る。如来(仏)は常に存在して、移り変わることは無い。」と。

  これわれらが大師釈尊の師子吼(シシク)の転法輪(テンボウリン)なりといへども、一切諸仏、一切祖師の頂ネイ(チョウネイ)眼睛(ガンゼイ)なり。

  これは我等の大師、釈尊の獅子吼された説法ですが、すべての仏すべての祖師の、最も重要な眼目なのです。

参学しきたること、すでに二千一百九十年(当日本 仁治二年 辛丑歳)
正嫡
(ショウテキ)わづかに五十代(至 先師天童浄和尚)
西天
(サイテン)二十八代、代代住持しきたり、東地二十三世、世世住持しきたる。
十方の仏祖、ともに住持せり。

これを学び続けて、すでに二千百九十年(日本、仁治二年に於て)を経、
その間の正統の嫡子は僅かに五十代(先師 天童如浄和尚に至り)であり、
西方インドに於て二十八代(摩訶迦葉から菩提達磨まで)の歴代祖師がこの教えを伝え、
東地中国に於て二十三代(菩提達磨から天童如浄まで)の歴代祖師がこれを伝えてきたのです。
又、十方の仏と祖師も、共にこの教えを伝えてきたのです。

  世尊道(セソンドウ)の一切衆生悉有仏性(イッサイ シュジョウ シツウ ブッショウ)は、その宗旨(シュウシ)いかむ。
是什麽物恁麽来
(シ シモブツ インモライ)の道転法輪(ドウ テンボウリン)なり。

  釈尊の説いた、「一切の衆生には、悉く仏性が有る。」という、その教えの要旨はどのようなものでしょうか。
それは、六祖慧能が南嶽懐穣に説いた「何者がそのようにやって来たのか。」という言葉であり、教えなのです。

あるいは衆生(シュジョウ)といひ、有情(ウジョウ)といひ、群生(グンジョウ)といひ、群類(グンルイ)といふ。
悉有
(シツウ)の言(ゴン)は、衆生なり、群有(グンウ)也。
すなはち悉有は仏性なり、悉有の一悉
(イチシツ)を衆生といふ。

これを、或は衆生(生きとし生けるもの)といい、有情(感情意識のあるすべてのもの)といい、群生(多くの生けるもの)といい、群類(様々な生けるもの)といいます。
釈尊の「悉く仏性が有る」という言葉は、衆生のことであり、すべての生けるもののことです。
つまり悉く有るものは、一切の存在は、仏性であり、悉く有るもの一切を、一切の存在を、衆生と言うのです。

正当恁麽時(ショウトウ インモジ)は、衆生の内外(ナイゲ)すなはち仏性の悉有なり。
単伝する皮肉骨髄
(ヒニク コツズイ)のみにあらず、汝得吾皮肉骨髄(ニョトクゴ ヒニクコツズイ)なるがゆへに。

まさにこの時には、衆生の内も外も、つまり仏性の悉く有るもの、仏性のあらゆる存在なのです。
これは、相承して伝えられた祖師の皮肉骨髄だけのことではなく、あなたも祖師の皮肉骨髄を得ているからです。

しるべし、いま仏性に悉有せらるる有は、有無の有にあらず。
悉有は仏語なり、仏舌なり、仏祖眼睛
(ブッソ ガンゼイ)なり、衲僧鼻孔(ノウソウ ビクウ)なり。

知ることです。今、仏性に於て悉く有ると言われるところの有は、有無の有ではありません。
「悉く有る」は仏の言葉であり、仏の説法であり、仏祖の眼目であり、修行者の肝要なのです。

悉有の言、さらに始有(シウ)にあらず、本有(ホンヌ)にあらず、妙有(ミョウウ)等にあらず。
いはんや縁有
(エンウ)、妄有(モウウ)ならんや。心境性相(シン キョウ ショウソウ)等にかかはれず。

「悉く有る」という言葉は、まったく初めて有るというのでも、本から有るというのでも、無いながら有るというようなことでもありません。
まして因縁によって有るのでも、妄想によって有るのでもありません。これは心境や性相などに関係しないのです。

しかあればすなはち、衆生悉有の依正(エショウ)、しかしながら業増上力(ゴウ ゾウジョウリキ)にあらず、妄縁起(モウエンギ)にあらず、法爾(ホウニ)にあらず、神通修証(ジンズウ シュショウ)にあらず。

このような訳ですから、衆生の悉く仏性の有るその身は、善業の増上力によって得たものでも、妄念によって生じたものでも、自然に得たものでもなく、神通力や修行によって得たものでもありません。

もし衆生の悉有、それ業増上および縁起法爾(エンギ ホウニ)等ならんには、諸聖(ショショウ)の証道(ショウドウ)および諸仏の菩提(ボダイ)、仏祖の眼睛も、業増上力および縁起法爾(エンギ ホウニ)なるべし。しかあらざるなり。

もし衆生に悉く仏性が有るということが、善業の力や因縁によるもの、自然に得たもの等であれば、諸聖の証明した仏道や、諸仏の菩提、仏祖の眼目も、善業の増上力や因縁によるもの、自然に得たものとなりましょう。しかしそういうことではありません。

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