仏性 (7)

(ぶっしょう)

 第十二祖 馬鳴尊者(メミョウ ソンジャ)、十三祖のために仏性海(ブッショウカイ)をとくにいはく、
山河大地
(センガ ダイチ)皆依建立(カイイ コンリュウ) 山河大地、皆依(ヨ)って建立し、
三昧六通(ザンマイ ロクツウ)由茲発現(ユウジ ホツゲン) 三昧六通、茲(コレ)に由(ヨ)って発現す。

 第十二祖 馬鳴尊者は、十三祖 迦毘摩羅(カビモラ)のために、仏性海について次のように説いた。
「山河大地は、皆 仏性海によって建立している。諸仏の禅定、六つの神通力も、仏性海によって出現する。」と。

しかあればこの山河大地、みな仏性海なり。皆依建立といふは、建立せる正当恁麼時(ショウトウ インモジ)、これ山河大地なり。

このように、この山河大地は皆 仏性の海なのです。
「皆 仏性海によって建立している」とは、仏性によって建立しているまさにそのものが、山河大地であるということです。

すでに皆依建立といふ、しるべし、仏性海のかたちはかくのごとし、さらの内外中間(ナイゲ チュウゲン)にかかはるべきにあらず。

すでに「皆 仏性海によって建立している」というのですから、仏性海の姿はこのように山河大地であり、それは決して内外中間には関係しないことを知りなさい。

恁麼(インモ)ならば、山河をみるは仏性をみるなり、仏性をみるは驢腮馬觜(ロサイバシ)をみるなり。

そうであれば、山河を見るということは仏性を見ることであり、仏性を見るということは、万物を見ることです。

皆依は全依(ゼンエ)なり、依全(イゼン)なりと、会取(エシュ)し不会取(フエシュ)するなり。

皆 仏性海によるということは、すべてが仏性海によるものであり、仏性海はすべてによるものであると、そのように会得し、また会得しないのです。

三昧六通、由茲発現。しるべし、諸三昧の発現未現、おなじく皆依仏性なり。全六通の由茲不由茲、ともに皆依仏性なり。

「諸仏の禅定、六つの神通力も、仏性海によって出現する」。この言葉から知りなさい、諸々の禅定の現れることも現れないことも、同じように皆 仏性に依っているということを。又すべての六神通の、仏性海によるものもよらないものも、共に皆 仏性に依るものであることを。

六神通(ロクジンツウ)はただ阿笈摩教(アギュウマキョウ)にいふ六神通にあらず。六といふは、前三三後三三を六神通ハラ蜜といふ。

ここにいう六神通は、もっぱら阿含経に説かれている六神通のことではありません。六とは無量であり、無量の神通力を六神通波羅蜜というのです。

しかあれば、六神通は明々百草頭(メイメイ ヒャクソウトウ)、明々仏祖意(メイメイ ブッソイ)なりと参究することなかれ。

ですから六神通とは、単に明らかな万象の中に、明らかに仏祖の心が現れていることをいう、と学んではいけません。

六神通に滞累(タイルイ)せしむといへども、仏性海の朝宗(チョウソウ)に罣礙(ケイゲ)するものなり。

六神通に捕らわれれば、仏性海の謁見に妨げとなるのです。

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