現成公案(3)

たき木はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取(ケンシュ)すべからず。

薪は灰になれば、決して薪にもどることはありません。それを灰は後、薪は前であると見てはいけません。

しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり、前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。

知ることです、薪は、薪のままで前があり後があるのであり、前後があるとしても、前後は断ち切れているのです。同様に、灰は灰のままで、後があり前があるのです。

かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生(ショウ)とならず。

その薪が灰になった後には、決して薪にならないように、人が死んだ後には、決して生にもどることはありません。

しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり、このゆゑに不生(フショウ)といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり、このゆゑに不滅といふ。

それを、生が死になったとは言わないのが、仏法の定められた決まりです。このために不生(生ぜず)と言うのです。また死が生にならないことも、仏法の定められた教えです。このために不滅(滅せず)というのです。

生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。

生も一時の姿であり、死も一時の姿です。例えば、冬と春のようなものです。人は冬そのものが春になるとは思わないものであり、また春そのものが夏になるとは言わないものです。

人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸(セキスン)の水にやどり、全月(ゼンゲツ)も弥天(ミテン)も、くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる。

人が悟りを得ることは、水に月が宿るようなものです。月は濡れず、水も壊れません。月は広く大きな光ですが、寸尺の水に宿るのです。満月も満天も、草の露にも宿り、一滴の水にも宿るのです。

さとりの人をやぶらざること、月の水をうがたざるがごとし。人のさとりを罣礙(ケイゲ)せざること、滴露の天月を罣礙せざるがごとし。

悟りが人を傷つけないことは、月が水を穿たないようなものです。人が悟りを妨げないことも、一滴の露が天空の月の宿ることを妨げないようなものです。

ふかきことはたかき分量なるべし。時節の長短は、大水小水を検点(ケンテン)し、天月の広狭を辨取(ベンシュ)すべし。

水の深さは月の高さの分量があるということです。月を宿す時節が長いか短いかは、大水や小水の月を点検して、その天空の月の大きさを知りなさい。(この訳不確実)

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