現成公案(4)

身心(シンジン)に法いまだ参飽(サンポウ)せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり。

自己の身心が、法を十分に会得していない時には、法は既に足りていると思えるものです。しかし、法がもし身心に充足すれば、一方ではまだ足りないと思えるものなのです。

たとへば船にのりて、山なき海中にいでて四方をみるに、ただまろにのみみゆ、さらにことなる相みゆることなし。

例えば舟に乗って、山のない海に出て四方を見れば、ただ円く見えるだけで、ほかの形は見えません。

しかあれど、この大海、まろなるにあらず、方なるにあらず、のこれる海徳、つくすべからざるなり。

しかし、この大海は、円いものでも四角いものでもありません。残っている海の功徳は、窮めることが出来ないのです。

宮殿(グウデン)のごとし、瓔珞(ヨウラク)のごとし。ただわがまなこのおよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり。

海は、魚には宮殿のように見え、天人には瑠璃の玉飾りのように見えるのであり、人にはただ、自分の眼の届く所が一時的に円く見えるだけなのです。

かれがごとく、万法もまたしかあり。塵中格外、おほく様子を帯せりといへども、参学眼力(サンガク ガンリキ)のおよぶばかりを、見取(ケンシュ)会取(エシュ)するなり。

この海のように、すべての存在も又その通りなのです。俗世間も仏法も、多くの様相を帯びているのですが、人は、自分の修行の見識の及ぶ所だけを見て理解するのです。

万法の家風をきかんには、方円(ホウエン)とみゆるよりほかに、のこりの海徳山徳おほくきはまりなく、よもの世界あることをしるべし。かたはらのみかくのごとくあるにあらず、直下(ジキゲ)も一滴もしかあるとしるべし。

すべての存在の姿を知るには、それが四角や円に見えることの他にも、残りの海の功徳や山の功徳は限りなく多く、そこには無限の世界があることを知りなさい。自分の周りだけがそうなのではありません。自分の直下も、一滴の水でさえも、そうであると知りなさい。

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