現成公案(5)

うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。

魚が水を行く時には、どこまで行っても水の果ては無く、鳥が空を飛ぶ時には、どこまで飛んでも空の果てはありません。

しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。只 用大(ヨウダイ)のときは使大(シダイ)なり、要小(ヨウショウ)のときは使小(シショウ)なり。

しかし、魚や鳥は、昔からまだ水や空を離れたことはありません。ただそれを大きな活動の時には大きく使い、小さな活動の時には小さく使っているだけなのです。

かくのごとくして、頭頭(トウトウ)に辺際をつくさずといふことなく、処々に蹈翻(トウホン)せずということなしといへども、鳥もしそらをいづれば、たちまちに死す。魚もし水をいづれば、たちまちに死す。

このように、魚や鳥の一つ一つは、水や空の限りを尽くして、どこでも自由に活動しているのですが、鳥がもし空を出れば忽ち死んでしまうのであり、魚も水を出れば忽ち死んでしまいます。

以水為命(イスイ イミョウ)しりぬべし、以空為命(イクウ イミョウ)しりぬべし。以鳥為命あり、以魚為命あり。以命為鳥なるべし、以命為魚なるべし。

このことから、我々は、魚が水を命としていることを知り、鳥は空を命としていることを知るのです。また、鳥を命とする空があり、魚を命とする水があるのです。空の命は鳥であり、水の命は魚なのです。

このほかさらに進歩あるべし。修証(シュショウ)あり、その寿者命者(ジュシャ ミョウシャ)あることかくのごとし。

このほかにも更に、考察を進めることが出来るでしょう。仏道の修行と悟りも、その生命とするところは、この魚と水、鳥と空の関係のようなものです。

しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかんと擬(ギ)する鳥魚あらんは、水にもそらにも、みちをうべからず、ところをうべからず。

しかし、水をきわめ、空をきわめてから、水や空を行こうとする鳥や魚があれば、それらは水にも空にも道を得られず、住む所も得られないのです。

このところをうれば、この行李(アンリ)したがひて現成公案(ゲンジョウ コウアン)す。このみちをうれば、この行李したがひて現成公案なり。

我々がこの所を会得できれば、この日々の行いはそのまま真実の所であり、この道を会得すれば、この日々の行いはそのまま真実の道となるのです。

このみち、このところ、大にあらず小にあらず、自にあらず他にあらず、さきよりあるにあらず、いま現ずるにあらざるがゆゑに、かくのごとくあるなり。

この道、この所は、大きくもなく小さくもなく、自己でもなく他者でもなく、前からあるものでもなく、今現れたものでもない為に、このようにあるのです。

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