行持 下(10)

しかあればすなはち、をしむにたとひ百計千方をもてすといふとも、つゐにはこれ塚中一堆(チョチュウ イッタイ)の塵と化(ケ)するものなり。

このように、我が身を愛することに、たとえ万策を尽くしても、終には墓場の土となるのです。

いはんやいたづらに小国の王民につかはれて、東西に馳走(チソウ)するあひだ、千辛万苦(センシン バンク)いくばくの身心(シンジン)をかくるしむる。

まして、その身を徒に小国の王に仕える民として使われて、東西に駆け回る間の多くの苦労は、どれほど身心を苦しめることでしょうか。

義によりては身命(シンミョウ)をかろくす、殉死(ジュンシ)の礼わすれざるがごとし。恩につかはるる前途(ゼント)、ただ暗頭(アントウ)の雲霧なり。小臣につかはれ、民間に身命をすつるもの、むかしよりおほし。

王臣の義によって自らの身命を軽くし、殉死の礼を遂げる者もあるのです。恩義に使われる者の前途は、まるで暗い雲霧のように一寸先も分からないのです。このように小国の臣として使われ、民間に身命を捨てる者は、昔から多いのです。

をしむべき人身(ニンシン)なり、道器となりぬべきゆゑに、いま正法(ショウボウ)にあふ、百千恒沙(ヒャクセンゴウシャ)の身命をすてても、正法を参学すべし。

まことに残念な人身です。仏道の器ともなるべきものだからです。ですから、今 正法に会ったならば、限りない数の身命を捨てても、その正法を学ぶべきです。

いたづらなる小人と、広大深遠(コウダイ ジンオン)の仏法と、いづれのためにか身命をすつべき。賢不肖(ケン フショウ)ともに進退にわづらふべからざるものなり。

つまらない小人と、広大深遠な仏法と、どちらの為に身命を捨てるべきかは、賢い人も愚かな人も、共に身の処し方には悩まないものです。

しづかにおもふべし。正法よに流布(ルフ)せざらんときは、身命を正法のために抛捨(ホウシャ)せんことをねがふとも、あふべからず。

静かに考えてごらんなさい。正法が世間に流布していない時には、身命を正法の為に投げ捨てようと願っても、正法には会えないのです。

正法にあふ今日のわれらをねがふべし、正法にあふて身命をすてざるわれらを慚愧(ザンキ)せん。はづべくは、この道理をはづべきなり。

ですから、正法に会う今日の我等を感謝しなさい。そして正法に会って身命を捨てない我等を深く恥じるのです。恥じるのなら、この道理を恥じるべきなのです。

行持 下(9)へ戻る

行持 下(11)へ進む

ホームへ