行持 下(17)

邪狂にして身命(シンミョウ)を名利(ミョウリ)の羅刹(ラセツ)にまかす、名利は一頭(イットウ)の大賊なり。名利をおもくせば、名利をあはれんべし。

ねじけ狂って身命を名利の悪鬼に任せれば、名利は一頭の大賊となるのです。名利を重んじるのなら、名利をいとおしみなさい。

名利をあはれむといふは、仏祖となりぬべき身命を、名利にまかせてやぶらしめざるなり。妻子親族あはれまんことも、またかくのごとくすべし。

名利をいとおしむとは、仏祖となるべき身命を、名利に任せて傷つけないことです。妻子や親族をいとおしむことも、またこのようにしなさい。

名利は夢幻空花(ムゲン クウゲ)なりと学することなかれ、衆生(シュジョウ)のごとく学すべし。名利をあはれまず、罪報(ザイホウ)をつもらしむることなかれ。参学の正眼(ショウゲン)、あまねく諸法をみんこと、かくのごとくなるべし。

名利は夢や幻の空しい花であると学んではいけません。人々の思うように学びなさい。名利をいとおしまずに、罪の報いを積み重ねるようではいけません。仏道を学ぶ正しい眼は、全てのものを、このように見るのです。

世人のなさけある、金銀珍玩(コンゴン チンガン)の蒙恵(モウケイ)なほ報謝(ホウシャ)す。好語好声(コウゴ コウショウ)のよしみ、こころあるはみな報謝のなさけをはげむ。

世間でも情けのある人は、金銀や珍しい物を恵まれれば感謝して報いようとします。また、好ましい言葉や声の親交には、心ある人は皆 感謝の情を尽くそうとします。

如来無上の正法(ショウボウ)を見聞(ケンモン)する大恩、たれの人面(ニンメン)かわするるときあらん。これをわすれざらん、一生の珍宝(チンホウ)なり。

まして、如来の無上の正法を見聞することが出来るという祖師の大恩を、人間ならば誰が忘れるものでしょうか。これを忘れないことは一生の宝物なのです。

この行持を不退転ならん形骸髑髏(ケイガイ ドクロ)は、生時死時(ショウジ シジ)、おなじく七宝塔におさめ、一切人天皆応供養(イッサイ ニンデン カイオウ クヨウ)の功徳(クドク)なり。

この行持を怠らない身体や髑髏には、生の時も死の時も、同じく七宝で飾られた塔に納められて、あらゆる人々に供養されるという功徳があるのです。

かくのごとく大恩ありとしりなば、かならず草露(ソウロ)の命をいたづらに零落(レイラク)せしめず、如山(ニョサン)の徳をねんごろに報ずべし。

このように、祖師には大恩があることを知れば、決して草露のようにはかない命を無駄には死なせず、山のような恩徳に、親しく応えていくことでしょう。

これすなはち行持なり。この行持の功(コウ)は、祖仏(ソブツ)として行持するわれありしなり。

これがつまり行持なのです。この行持の功徳とは、祖師や仏として行持する我があるということなのです。

おほよそ初祖、二祖、かつて精藍(ショウラン)を草創せず、薙草(チソウ)の繁務(ハンム)なし。および三祖、四祖もまたかくのごとし。五祖、六祖の寺院を自草(ジソウ)せず、青原(セイゲン)、南嶽(ナンガク)もまたかくのごとし。

およそ初祖や二祖は、かつて寺院を草創せず、草を刈り土地を切り開く繁務はありませんでした。そして三祖(鑑智僧璨)や四祖(大医道信)も又そうでした。五祖(大満弘忍)や六祖(大鑑慧能)も自ら寺院を始めたわけではありませんし、青原(行思)や南嶽(懐譲)も又そうだったのです。

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