行持 下(19)

しかあればすなはち、四祖禅師は、身命(シンミョウ)を身命とせず、王臣(オウシン)に親近(シンゴン)せざらんと行持せる行持、これ千歳(センザイ)の一遇(イチグウ)なり。

このように四祖 大医禅師が、自らの身命を身命とも思わず、国王 大臣に親近しないように身を処した行持は、千年に一度しか巡り会えない優れた行持です。

太宗(タイソウ)は有義(ユウギ)の国主なり、相見(ショウケン)のものうかるべきにあらざれども、かくのごとく先達(センダツ)の行持はありけると参学すべきなり。

太宗は道義を具えた国主ですから、会うことにおっくうであったわけではありませんが、我々は、このように先達が行持されたことを学ばなければいけません。

人主(ニンシュ)としては、身命ををしまず、引頸就刃(インケイ シュウジン)して身命ををしまざる人物をも、なほ歎慕(タンボ)するなり。これいたづらなるにあらず、光陰ををしみ、行持を専一にするなり。

人々の主の太宗としては、身命を惜しまずに、刀の前に首を伸ばす人物も、また感歎し敬慕するのです。この禅師は無用な事をしたわけではなく、光陰を惜しんで修行を専一にされたのです。

上表三返(ジョウヒョウ サンベン)、希代(キダイ)の例なり。いま澆季(ギョウキ)には、もとめて帝者にまみえんとねがふあり。

国主の招きに三度までも断りの書を送ったことは、世にも希な例です。今日のような道徳 人情のすたれた世には、自ら求めて帝王に見えようと願う者がいるものです。

高宗(コウソウ)の永徽辛亥(エイキ カノト イ)の歳(トシ)、閏(ウルウ)九月四日、忽(タチマ)ちに門人に垂誡(スイカイ)して曰く、「一切諸法は、悉く皆 解脱(ゲダツ)なり。汝等 各自 護念して、未来に流化(ルケ)すべし。」言ひ訖(オワ)りて安坐して逝(セイ)す。

唐の高宗の代、永徽二年九月四日、四祖は、突然 門人たちに教えて言いました。
「全てのものは、ことごとく皆 解脱している。お前たちは、各自このことを大切に護り、未来に教えを広めなさい。」このように言い終わると、安坐して亡くなりました。

寿七十有二、本山に塔をたつ。明年四月八日、塔の戸、故(ユエ)無くして自ら開く、儀相(ギソウ)生けるが如し、爾後(ソノノチ)、門人 敢(アエ)て復 閉じず。

寿は七十二歳。本山(破頭山)に墓塔が建てられました。明くる年の四月八日、塔の扉が理由もなく自然に開くと、その姿は生きているようでした。その後門人たちは、敢て扉を閉じようとしませんでした。

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