行持 下(21)

つひに象骨山(ゾウコツザン)にのぼりるにおよむで、すなはち師と同力締構(ドウリキ テイコウ)するに、玄徒臻萃(ゲント シンスイ)せり。師の入室咨決(ニッシツ シケツ)するに、晨昏(ジンコン)にかはることなし。

雪峰が、終に象骨山(雪峰山)に上ることになり、師(玄沙)と共に力を合わせて道場を開くと、仏道の修行者たちが集まってきました。しかし、師が雪峰に法を尋ねることは、朝夕変わることがありませんでした。

諸方の玄学のなかに、所未決(ショミケツ)あるは、かならず師にしたがひて請益(シンエキ)するに、雪峰和尚いはく、備頭陀(ビヅダ)にとふべし。

諸方の修行者の中に、仏法が未解決の者があれば、必ず師に従って雪峰に教えを乞いに行くのですが、雪峰和尚は、「師備 頭陀に尋ねなさい。」 と言うのでした。

師まさに仁(ジン)にあたりて、不譲(フジョウ)にしてこれをつとむ。抜群の行持にあらずよりは、恁麽(インモ)の行履(アンリ)あるべからず。

そこで師は、正に任に当たって譲ることなく、これを務めました。抜群の修行者でなければ、このようなことはありえないのです。

終日宴坐(シュウジツ エンザ)の行持、まれなる行持なり。いたづらに声色(ショウシキ)に馳騁(チテイ)することはおほしといへども、終日の宴坐はつとむる人まれなるなり。

師の終日坐禅の行持は、世に希な行持でした。徒に周囲の物事に走り回ることは多いけれども、終日の坐禅を努める人は希です。

いま晩学としては、のこりの光陰のすくなきことをおそりて、終日宴坐、これをつとむべきなり。

現在、晩学の者としては、残りの月日の少ないことを恐れて、終日の坐禅を努めるべきです。

 長慶(チョウケイ)の慧稜和尚(エリョウ オショウ)は、雪峰下(セッポウカ)の尊宿(ソンシュク)なり。雪峰と玄沙とに往来して、参学すること僅(キン)二十九年なり。その年月に、蒲団二十枚を坐破(ザハ)す。

 長慶の慧稜和尚は、雪峰門下の有徳の師です。雪峰と玄沙とに往来して、ほぼ二十九年学びました。その年月に、坐禅の蒲団を二十枚 坐り破ったといいます。

いまの人の坐禅を愛するあるは、長慶をあげて慕古(モコ)の勝躅(ショウチョク)とす。したふはおほし、およぶすくなし。

今日、坐禅を愛する人があれば、長慶の名を挙げて、慕うべき優れた先人であると言います。長慶を慕う者は多いのですが、それに及ぶ者は少ないのです。

しかあるに、三十年の功夫(クフウ)むなしからず、あるとき凉簾(リョウレン)を巻起(カンキ)せしちなみに、忽然(コツネン)として大悟す。

しかし、長慶の三十年の精進は無駄ではありませんでした。ある時すだれを巻き上げていると、たちまち大悟しました。

三十年来かつて郷土にかへらず、親族にむかはず、上下肩(ジョウゲケン)と談笑せず、専一に功夫す。師の行持は三十年なり。

長慶は、三十年来 決して郷土に帰らず、親族に会わず、僧堂の両隣の人と談笑せず、専一に精進しました。師の修行は三十年でした。

疑滞(ギタイ)を疑滞とせること三十年、さしおかざる利機といふべし、大根といふべし。励志(レイシ)の堅固なる、伝聞(デンブン)するは或従経巻(ワクジュウ キョウカン)なり。

疑問を疑問として抱き続けること三十年というのは、差し置くことのない優れた人物と言うべきであり、大根気と言うべきです。このように志の堅固な人を伝え聞くのは、経典の中ぐらいのものです。

ねがふべきをねがひ、はづべきをはぢとせん、長慶に相逢(ソウホウ)すべきなり。実を論ずれば、ただ道心なく、操行(ソウギョウ)つたなきによりて、いたづらに名利(ミョウリ)には繋縛(ケバク)せらるるなり。

我々は、願うべきを願い、恥じるべきを恥じようとするなら、この長慶に出会うべきです。ところが、実際には、ひたすら道心も無く、修行も疎かなので、徒に名利に縛られるのです。

行持 下(20)へ戻る

行持 下(22)へ進む

ホームへ