又 況(イワ)んや百味の珍羞(チンシュウ)、逓(タガイ)に相(アイ)供養し、道(イ)ふ、我は四事具足(シジ グソク)して、方(マサ)に発心(ホッシン)す可しと。
まして今では、百味の御馳走を互いに供養し合って言うことには、自分は食事や衣服、寝具 薬などを備えて、まさに発心修行することが出来ると。
只 恐らくは做手脚(サシュキャク)迄(イタ)らずして、便ち是れ生(ショウ)を隔て世を隔て去らん。時光 箭(ヤ)に似たり、深く為に惜しむ可し。
恐らくは手足の振る舞いも修まらず、仏道から生を隔て世を隔ててしまうことであろう。光陰は矢のように速いのだから、深く惜しまねばならぬ。
然も是(カク)の如くなりと雖も、更に他人の長に従って相(アイ)度(ワタ)るに在(ア)り。山僧(サンゾウ)也(マ)た強(シイ)て你(ナンジ)を教ふることを得ず。
しかしこのようであっても、修行はさらに他人の長所に従って互いに助け合うことが大切であり、私が強いてあなた方に教えようとしても出来ないのだ。
諸仁者(ショニンジャ)、還(カエ)って古人の偈(ゲ)を見るや、
『山田脱粟(サンデン ダツゾク)の飯、野菜淡黄(ヤサイ タンオウ)の韲(サイ)、喫せば則(スナワ)ち君が喫するに従(マカ)す、喫せざれば東西するに任(マカ)す。』
伏して惟(オモン)みれば同道(ドウドウ)、各自に努力せよ。珍重(チンチョウ)。」
諸賢よ、次のような古人の詩を見たことがあるだろうか。
『山の田で取れた玄米の飯と、黄ばんだ野菜のつけもの。これを食べる食べないは君に任せる。食べないのなら何処へでも行けばよい。』
どうか道を同じくする者たちよ、各自に努力しなさい。ではお大切に。」
これすなはち祖宗単伝の骨髄なり。高祖の行持おほしといへども、しばらくこの一枚を挙(コ)するなり。
この教えは、仏祖が相伝した仏道修行の骨髄です。芙蓉高祖の行持は多いけれども、とりあえずその一つを取り上げました。
いまわれらが晩学なる、芙蓉(フヨウ)高祖の芙蓉山に修練(シュレン)せし行持、したひ参学すべし。それすなはち祇薗(ギオン)の正儀(ショウギ)なり。
今、我々晩学後進の者は、芙蓉高祖が芙蓉山で修練された行持を、お慕いして学ぶべきです。それは祇園精舎の釈尊の正しい作法なのです。