行持 下(30)

 洪州(コウシュウ)江西(コウゼイ)開元寺(カイゲンジ)大寂禅師(ダイジャク ゼンジ)、諱(イミナ)道一(ドウイツ)、漢州十方県人なり。南嶽(ナンガク)に参侍(サンジ)すること十余載(ジュウヨサイ)なり。

 洪州 江西 開元寺の大寂禅師(馬祖)は、名を道一といい、漢州十方県の人です。この師は南嶽懐譲(ナンガク エジョウ)に仕えて学ぶこと十数年でした。

あるとき、郷里にかへらんとして、半路(ハンロ)にいたる。半路よりかへりて焼香礼拝(ショウコウ ライハイ)するに、南嶽ちなみに偈(ゲ)をつくりて馬祖(バソ)にたまふにいはく、

ある時、郷里に帰ろうとして途中まで行くと、また引き返して焼香礼拝しました。そこで南嶽は詩を作って馬祖に与えました。

「勧君(カンクン)すらく帰郷すること莫(ナカ)れ、帰郷は道(ドウ)行われず。並舎(ヘイシャ)の老婆子(ロウバス)、汝が旧時(キュウジ)の名を説かん。」

「君に勧める、帰郷してはならない。帰郷すれば仏道は行われない。家々の老婆が、お前の昔の名を呼ぶであろうから。」

この法語をたまふに、馬祖うやまひたまはりて、ちかひていはく、「われ生々(ショウジョウ)にも漢州にむかはざらん。」と誓願して、漢州にむかひて一歩をあゆまず。江西に一住(イチジュウ)して、十方を往来せしむ。

この詩を与えると、馬祖は敬い頂戴して、自ら誓って言いました。「私は今後、何度生まれ変わろうとも、故郷の漢州には向かいません。」 このように誓い、再び漢州に向かって一歩も歩むことはありませんでした。そして、専ら江西に住して、諸方の修行者が往来したのです。

わづかに即心是仏(ソクシン ゼブツ)を道得(ドウトク)するほかに、さらに一語の為人(イニン)なし。しかありといへども、南嶽の嫡嗣(テキシ)なり、人天(ニンデン)の命脈なり。

馬祖は、ただ即心是仏(この心がそのまま仏である)と説くだけで、他には何も説きませんでした。しかしながら馬祖は、南嶽の仏法の嫡子であり、人間界 天上界の命となった人でした。

いかなるかこれ莫帰郷(マク キキョウ)。莫帰郷とはいかにあるべきぞ。東西南北の帰去来(キキョライ)、ただこれ自己の倒起(トウキ)なり。まことに帰郷道不行(キキョウ ドウフギョウ)なり。

帰郷してはならない、とはどういうことでしょうか。帰郷してはならない、とはどうあるべきなのでしょうか。東西南北の故郷に帰ろうとすること、これはただ自己に背くことなのです。まことに、帰郷すれば仏道は行われない、ということなのです。

道不行(ドウ フギョウ)なる、帰郷なりとや行持する、帰郷にあらざるとや行持する。帰郷なにによりてか道不行なる。不行にさえらるとやせん、自己にさえらるとやせん。

仏道が行われないのは、帰郷が原因と考えるべきか、帰郷とは無関係と考えるべきか。帰郷がどうして仏道が行われないことになるのか。それは行わないことに妨げられるのであろうか、それとも自分自身に妨げられるのであろうか。

並舎老婆子(ヘイシャ ロウバス)は、説汝旧時名(セツニョ キュウジメイ)なりとはいはざるなり。並舎老婆子、説汝旧時名なりといふ道得なり。

南嶽はその理由として、家々の老婆は お前の昔の名前をよぶであろうから、とは言っていないのです。家々の老婆は お前の昔の名前をよぶであろうから、という話をしたのです。

南嶽いかにしてかこの道得ある、江西いかにしてかこの法語をうる。その道理は、われ向南行(コウナンコウ)するときは、大地おなじく向南行するなり。余方もまたしかあるべし。

南嶽は、どうしてこのように説いたのでしょうか。江西は、どのようにこの教えを会得したのでしょうか。その道理とは、自分が南へ向かって行く時には、大地も同じように南へ向かって行くということです。他の方角でもまたその通りなのです。

須弥大海(シュミ タイカイ)を量としてしかあらずと疑殆(ギタイ)し、日月星辰(ニチガツ ショウシン)に格量(カクリョウ)して猶滞(ユウタイ)するは少見(ショウケン)なり。

これを須弥山や大海の分量から、そうではあるまいと疑ったり、太陽や月 星を推量して、なお躊躇することは、狭い見方です。

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