行持 下(39)

しづかにおもふべし、一生いくばくにあらず。仏祖の語句、たとひ三々両々なりとも道得(ドウトク)せんは、仏祖を道得せるならん。

静かに考えてみなさい。人の一生はそれほど長くありませんが、仏祖の言葉を、たとえ二三句でも説き尽くすことが出来れば、それは仏祖を説き尽くすことになるのです。

ゆゑはいかん、仏祖は身心一如(シンジン イチニョ)なるがゆゑに、一句両句、みな仏祖のあたたかなる身心なり。

何故ならば、仏祖は身と心が一如なので、その一二句は、皆 仏祖の温かな身心だからです。

かの身心、きたりてわが身心を道得す。正当道得時(ショウトウ ドウトクジ)、これ道得きたりてわが身心を道取(ドウシュ)するなり。此生道取累生身(此の生に累生の身を道取す)なるべし。

その身心がやって来て、自分の身心を説き尽くすのです。その説き尽くす時には、仏祖の説法がやって来て、自分の身心を説くのです。今生に於いて累生の身を説くのです。

かるがゆゑに、ほとけとなり祖となるに、仏をこえ祖をこゆるなり。三々両々の行持の句、それかくのごとし。

それゆえに、仏となり祖師となるために、仏を越え祖師を越えていくのです。仏祖の二三の行持の句とは、こういうものです。

いたづらなる声色(ショウシキ)の名利(ミョウリ)に馳騁(チヘイ)することなかれ、馳騁せざれば仏祖単伝の行持なるべし。

空しい俗世の名利のために走り回ってはいけません。走り回らなければ、仏祖が親しく相伝した行持なのです。

すすむらくは大隠小隠(ダイイン ショウイン)、一箇半箇(イッコ ハンコ)なりとも、万事万縁をなげすてて、行持を仏祖に行持すべし。

皆に勧めたいことは、町中に隠れる賢者であれ、深山に隠れる賢人であれ、たとえ一人半人であろうとも、万事万縁を投げ捨てて、自らの行持を仏祖に倣って行持してほしいということです。

正法眼蔵 仏祖行持 第十六下
仁治三年 壬寅
(ミズノエ トラ)四月五日、観音導利(カンノンドウリ)興聖宝林寺(コウショウ ホウリンジ)に于(オ)いて書く。
同四年 癸卯
(ミズノト ウ)正月十八日 書写、同三月八日 校点了(コウテンリョウ)。懐弉(エジョウ)

行持 下 おわり。

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