行持 下(4)

西天(サイテン)と中華と、土風はるかに勝劣(ショウレツ)せり、方俗(ホウゾク)はるかに邪正(ジャショウ)あり。大忍力(ダイニンリキ)の大慈(ダイズ)にあらずよりは、伝持法蔵の大聖(ダイショウ)むかふべき処在(ショザイ)にあらず。

西方インドと中華とでは、風土に遙かに優劣があり、習俗にも遙かに正邪の違いがあります。文化の劣る中華は大忍力の大慈悲がなければ、法蔵を伝持する大聖者でも向かうべき場所ではありません。

住すべき道場なし、知人(チニン)の人まれなり。しばらく嵩山(スウザン)に掛錫(カシャク)すること九年なり。人これを壁観婆羅門(ヘキカン バラモン)といふ。

初祖は住むべき道場も無く、知人も希なので、とりあえず嵩山に止まって九年を過ごしました。人々は彼のことを「壁観婆羅門(壁をながめるインド僧)」と呼んだと言います。

史者(シシャ)これを習禅の列に編集すれども、しかにはあらず。仏仏嫡嫡相伝(ブツブツ テキテキ ソウデン)する正法眼蔵(ショウボウ ゲンゾウ)、ひとり祖師のみなり。

歴史家は、彼を禅定を習う者の部類に編集しましたが、そうではありません。仏から仏へと相伝した正法眼蔵(仏法の神髄)を伝えた人は、祖師達磨だけなのです。

石門(セキモン)の林間録(リンカンロウ)に云く、「菩提達磨(ボダイ ダルマ)、初め梁(リョウ)より魏(ギ)に之(ユ)く。嵩山の下(フモト)に経行(キンヒン)し、少林に倚杖(イジョウ)す。

石門(覚範慧洪)の林間録によると、
「菩提達磨は、初め梁の国から魏の国へ赴いた。そして嵩山のふもとに行き、少林寺に身を寄せた。

面壁燕坐(メンペキ エンザ)する已(ノミ)なり、習禅には非ず。久しくして人 其の故を測ること莫(ナ)し。因て達磨を以て習禅と為す。

達磨は、終日壁に向かって坐禅するだけであったが、それは禅定の習練ではなかった。久しい間、人々はそのことを推し量ることはなかった。そこで達磨を禅定を習練する者とした。

夫れ禅那(ゼンナ)は、諸行の一なるのみ、何ぞ以て聖人を尽すに足らん。而も当時の人、之(コレ)を以てす。為史(イシ)の者、又従って習禅の列に伝(ツラ)ね、枯木死灰(コボク シカイ)の徒(トモガラ)と伍(トモ)ならしむ。

そもそも禅定とは、多くの修行の中の一つであり、どうしてこれで、この聖人を言い尽くすことが出来ようか。しかし当時の人は、このように考えたのである。歴史家も又それに従い、彼を禅定を習練する者の部類に記載し、枯れ木や冷めた灰のような者たちと同列に扱ったのである。

然りと雖も、聖人は禅那に止まるのみに非ず、而(シカ)も亦 禅那に違せず。易(エキ)の陰陽(インヨウ)より出でて、而も亦 陰陽に違せざるが如し。

しかしながら、この聖人は、禅定に止まるだけでなく、しかも禅定に背くことはないのである。それは易が陰陽の二気から出て、しかも陰陽に背かないようなものである。

梁武(リョウブ)初めて達磨を見し時、即ち問う、「如何(イカ)ならんか是れ聖諦第一義。」
答えて曰く、「廓然無聖
(カクネン ムショウ)。」
進んで曰く、「朕
(ワレ)に対する者は誰(タ)そ。」
又曰く、「不識
(フシキ)。」

梁の武帝は、初めて達磨に会った時に尋ねた、「聖人の悟った真理とはどのようなものか。」
師は答えて、「心がからりと開けて凡人も聖人も無いことです。」
さらに武帝は尋ねた、「凡人も聖人も無いのなら、あなたは一体何者なのか。」
師は答えて、「知りませぬ。」と。

達磨をして方言に通ぜざらしめば、則ち何ぞ是の時に於いて、能くしかあらしめんや。」

もし達磨が中国の言葉に通じていなければ、どうしてこの時に、このような対応が出来たであろうか。」

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