行持 下(7)

しかあるに、初祖は南天竺国(ナンテンジク コク)、香至王(コウシ オウ)の第三皇子(オウジ)なり。すでに天竺国の帝胤(テイイン)なり、皇子なり。

それに、初祖 達磨は、南インド国 香至王の第三皇子です。現にインド国王の子孫であり、皇子なのです。

高貴のうやまふべき、東地辺国には、かしづきたてまつるべき儀もいまだしらざるなり。香なし、花なし、坐褥(ザニク)おろそかなり、殿台(デンダイ)つたなし。

高貴な人を迎えるには、尊敬して礼を尽くすべきですが、東方の辺国には、賓客を大切にもてなす礼法も、まだ知られていませんでした。香も花もなく、敷物も粗末であり、宮殿も見苦しいものでした。

いはんやわがくには、遠方の絶岸なり、いかでか大国の皇(オウ)をうやまふ儀をしらん。たとひならふとも、迂曲(ウキョク)してわきまふべからざるなり。

まして我が国は、海を隔てた遠方の地であり、どうして大国の王を敬う礼法を知っているものでしょうか。たとえ学んでも、まごついて心得ることが出来ないでしょう。

諸侯と帝者と、その儀ことなるべし、その礼も軽重あれども、わきまへしらず。

たとえば、諸侯と帝王とでは、その法が異なるものであり、その礼にも軽重があるのですが、それを知らないのです。

自己の貴賤をしらざれば、自己を保任(ホニン)せず。自己を保任せざれば、自己の貴賤もともあきらむべきなり。

自己の貴賤を知らなければ、自己を保つことは出来ません。自己を保つことが出来なければ、自己の貴賤を先ず明らかにするべきです。

初祖は釈尊第二十八世の附法(フホウ)なり。道(ドウ)にありてよりこのかた、いよいよおもし。かくのごとくなる大聖至尊(ダイショウ シソン)、なほ師勅(シチョク)によりて身命ををしまざるは、伝法(デンポウ)のためなり、求生(グショウ)のためなり。

初祖は、釈尊から第二十八代の法の相続者です。仏道に入ってからは、いよいよ重要な人になりました。そのような尊い大聖人が、更に師のいましめに従って、身命を惜しまず中国へ渡ったのは、法を伝えるためであり、人々を救うためでした。

真丹国(シンタンコク)には、いまだ初祖西来よりさきに、嫡嫡単伝(テキテキ タンデン)の仏子をみず、嫡嫡面授(テキテキ メンジュ)の祖面(ソメン)を面授せず、見仏(ケンブツ)いまだしかりき。のちにも、初祖の遠孫のほか、さらに西来せざるなり。

中国には、初祖がインドから来る以前に、釈尊から綿綿と相伝された法を伝える仏弟子はいませんでした。そのために、代々法を相伝した師から教えを受けず、まだ仏に見えたこともないのです。その後も、初祖の遠孫の他には、全くインドから来なかったのです。

曇花(ドンゲ)の一現(イチゲン)はやすかるべし、年月をまちて算数(サンジュ)しつべし。初祖の西来はふたたびあるべからざるなり。

三千年に一度咲くという優曇華に会うことは、難しいことではありません。それは年月を数えて待てばよいのです。しかし、初祖がインドからやって来ることは、もう二度とないのです。

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