行持 下(9)

また真丹国(シンタンコク)にも、祖師西来よりのち、経論に倚解(イゲ)して、正法(ショウボウ)をとぶらはざる僧侶おほし。これ経論を披閲(ヒエツ)すといへども、経論の旨趣(シシュ)にくらし。この黒業(コクゴウ)は今日の業力(ゴウリキ)のみにあらず、宿生(シュクショウ)の悪業力(アクゴウリキ)なり。

また中国にも、祖師 達磨がインドから正法を伝えた後でも、仏法を経典 論書を拠り所に解釈して、祖師の正法を尋ねない僧侶が大勢いました。この人々は、経典 論書を開いて読んでも、経典 論書の真意をよく知らないのです。このように、祖師の正法を学ぶことの出来ない悪業は、現在の業だけでなく、過去世の悪業の報いなのです。

今生(コンジョウ)つひに如来の真訣(シンケツ)をきかず、如来の正法をみず、如来の面授(メンジュ)にてらされず、如来の仏心を使用せず、諸仏の家風をきかざる、かなしむべき一生ならん。隋 唐 宋の諸代、かくのごときのたぐひおほし。

今生の中に、遂に如来の修行の秘訣を聞かず、如来の正法を見ず、如来の親しく授けた法に照らされず、如来の仏心を使用せず、諸仏の家風を聞かないことは、悲しむべき一生です。随、唐、宋の時代にも、このような人たちは多かったのです。

ただ宿殖般若(シュクジキ ハンニャ)の種子(シュウジ)ある人は、不期(フゴ)に入門せるも、あるは算沙(サンシャ)の業(ゴウ)を解脱して祖師の遠孫(オンソン)となれりしは、ともに利根(リコン)の機なり、上上(ジョウジョウ)の機なり、正人(ショウニン)の正種(ショウシュ)なり。愚蒙(グモウ)のやから、ひさしく経論の草庵に止宿(シシュク)するのみなり。

ひたすら過去世に悟りの智慧の種子を植えた人々は、たまたま仏道に入門しても、ある者は数限りない業を解脱して、祖師 達磨の法孫となることが出来たのは、皆優れた資質の持ち主であったからであり、最上の人であったからであり、正直な人間として正法を継ぐ人であったからです。愚かな人々は、長い間、経典 論書の教えの中に止まっているだけなのです。

しかあるに、かくのごとくの嶮難(ケンナン)あるさかひを、辞せず、いとはず、初祖西来する玄風、いまなほあふぐところに、われらが臭皮袋(シュウヒタイ)ををしむで、つゐになににかせん。

ですから、このような険しく困難な地域を、拒むことなく嫌うことなく渡って来た初祖の奥深い宗風を、今、更に敬い学ぶことに、我が身を惜しんでどうするのですか。

香厳禅師(キョウゲン ゼンジ)いはく、
「百計千方
(ヒャッケイ センポウ)、只だ身の為にす、
 知らず、身は是れ塚中
(チョチュウ)の塵なることを、
 言うこと莫
(ナカ)れ、白髪に言語無しと、
 此れは是れ、黄泉伝語
(コウセン デンゴ)の人。」

香厳智閑禅師が言うことには、
「日々の多くのはかりごとは、ただ我が身のためにしている。
 そして、この身は墓場の土となることを知らない。
 白髪は語らないと言ってはならない。
 これは冥土の言葉を伝える人なのだ。」

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