行持 上(10)

後大潙和尚(ゴダイイ オショウ)いはく、「我 二十年 潙山(イサン)に在って、潙山の飯を喫し、潙山の屙(ア)を屙し、潙山の道に参ぜず。只一頭の水牯牛(スイコギュウ)を牧得して、終日露回回(シュウジツ ロカイカイ)なり。」

後大潙(長慶大安)和尚が言うことには、「私は二十年 潙山に居て、潙山の飯を食べ、潙山の厠で用を足して、潙山禅師の道を学ぶことはなかった。ただ一頭の水牛(本来の自己)を放牧して、終日ぐるぐる歩き回っていただけである。」 と。

しるべし、一頭の水牯牛は、二十年 在潙山(ザイ イサン)の行持より牧得せり。この師かつて百丈(ヒャクジョウ)の会下に参学しきたれり。

知ることです、一頭の水牛は、二十年来の潙山での行持によって放牧することが出来たのです。この師は、かつて百丈禅師の下で学んでいました。

しづかに二十年中の消息おもひやるべし、わするる時なかれ。たとひ参潙山道(サン イサンドウ)する人ありとも、不参潙山道(フサン イサンドウ)の行持はまれなるべし。

静かに師の二十年間の修行を思いやり、その志しを忘れてはなりません。たとえ潙山禅師の道を学ぶ人はあっても、潙山禅師の道を学ばない行持は希です。

趙州(ジョウシュウ)観音院 真際大師(シンサイ ダイシ)従諗和尚(ジュウシン オショウ)、とし六十一歳なりしに、はじめて発心求道(ホッシン グドウ)をこころざす。

趙州 観音院の真際大師 従諗和尚は、六十一歳の時に初めて発心し求道を志しました。

瓶錫(ビョウシャク)をたづさへて行脚(アンギャ)し、遍歴諸方(ヘンレキ ショホウ)するに、つねにみづからいはく、「七歳の童子なりとも、若し我よりも勝れば、我 即ち伊(カレ)に問うべし。百歳の老翁(ロウオウ)なりとも、我に及ばざれば、我 即ち他(カレ)を教うべし。」

水瓶と錫杖を携えて行脚し、諸方を巡り歩いて、常に自ら言うことには、「七歳の子供でも、私より優れていれば教えを受けよう。百歳の老人でも、私に及ばなければ、教えてあげよう。」と。

かくのごとくして南泉(ナンセン)の道を学得する、功夫(クフウ)すなはち二十年なり。年至(ネンシ)八十のとき、はじめて趙州城東(ジョウシュウ ジョウトウ)観音院に住して、人天(ニンデン)を化導(ケドウ)すること四十年来(ネンライ)なり。

このようにして、南泉禅師の道を学んで精進すること二十年でした。そして八十歳の時に、初めて趙州城東の観音院に住持して、人々を導くこと四十年に亘りました。

いまだかつて一封の書をもて檀那(ダンナ)につけず。僧堂おほきならず、前架(ゼンカ)なし、後架(ゴカ)なし。

その間、一度も喜捨を求める書を信者に託しませんでした。その僧堂は大きくなく、堂の前後の設備も整っていませんでした。

あるとき牀脚(ジョウキャク)をれき。一隻(イッシャク)の焼断(ショウダン)の燼木(ジンボク)を、縄をもてこれをゆひつけて、年月を経歴(キョウリャク)し、修行するに、知事(チジ)この牀脚をかへんと請(ショウ)するに、趙州ゆるさず。古仏(コブツ)の家風きくべし。

ある時、住持の椅子の脚が折れたので、趙州和尚は一本の焦げた木を椅子に縛りつけて、長い間修行していました。係りの僧が椅子の修理を申し出たところ、趙州和尚はそれを許しませんでした。いにしえの仏祖の家風を我々は学ぶべきです。

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