行持 上(21)

向来(コウライ)の仏祖のなかに、天の供養をうくるおほし。しかあれどもすでに得道のとき、天眼(テンゲン)およばず、鬼神(キジン)たよりなし。そのむねあきらむべし。

これまでに、仏や祖師の中で天界から供養を受けた人は多い。しかし、仏道を悟った後は、天人の眼も届かず、鬼神が訪れることも無くなるのです。その意味するところを明らかにしなさい。

天衆(テンシュ)、神道(シンドウ)、もし仏祖の行履(アンリ)をふむときは、仏祖にちかづくみちあり。

天人衆や鬼神たちが、もし仏祖の行いを習えば、仏祖に近づく道もあります。

仏祖あまねく天衆、神道を超証(チョウショウ)するには、天衆、神道はるかに見上(ケンジョウ)のたよりなし、仏祖のほとりにちかづきがたきなり。

しかし、仏祖がすべての天人衆や鬼神の世界を越えてしまうと、天人衆や鬼神は、ずっと会いに訪れることが無くなるのです。それは仏祖のそばには近付き難いからです。

南泉(ナンセン)いはく、「老僧修行のちからなくして鬼神に覰見(ショケン)せらる。」 しるべし、無修(ムシュ)の鬼神に覰見せらるるは、修行のちからなきなり。

南泉(普願和尚)が言うことには、「私は修行の力が無くて、鬼神に様子を見られてしまった。」と。 知ることです、修行していない鬼神に様子を見られてしまうのは、修行の力が無いからです。

太白山(タイハクサン)宏智禅師(ワンシ ゼンジ)正覚和尚(ショウガク オショウ)の会(エ)に、護伽藍神(ゴガランジン)いはく、「われきく、覚和尚(カク オショウ)この山に住すること十余年なり。つねに寝堂(シンドウ)にいたりてみんとするに、不能前(フノウゼン)なり、未之識也(ミシシキナリ)。」 まことに有道(ウドウ)の先蹤(センショウ)にあひあふなり。

また、太白山の宏智禅師 正覚和尚の道場に住む寺の守護神が言うことには、「私が聞く所によると、正覚和尚は、この山に住んで十数年になるという。そこで、いつも和尚の部屋に行って会おうとするのだが、どうしても部屋に入って行けない。それで、まだ和尚のことを知らない。」と。 これは、まことに道心のある先人の足跡に会うと言うべきです。

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