行持 上(26)

この一日の身命は、たつとぶべき身命なり、たつとぶべき形骸(ケイガイ)なり。かるがゆゑに、いけらんこと一日ならんは、諸仏の機を会(エ)せば、この一日を曠劫多生(コウゴウ タショウ)にもすぐれたるとするなり。

この一日の身命は、尊ぶべき身命であり、尊ぶべき人身です。それ故に、一日の命の者が、諸仏の働きを会得すれば、その一日は永劫の多くの生よりも優れているというのです。

このゆゑに、いまだ決了(ケツリョウ)せざらんときは、一日をいたづらにつかふことなかれ。この一日は、をしむべき重宝(チョウホウ)なり。尺璧(セキヘキ)の価直(ケジキ)に擬(ギ)すべからず。驪珠(リジュ)にかふることなかれ。古賢(コケン)をしむこと、身命よりもすぎたり。

この故に、まだ会得していないのなら、一日を無駄に使ってはいけません。この一日は、大切にすべき宝なのです。これを一尺の宝玉の価値と比べてはいけません。驪竜(リリュウ)の玉と取り換えてはいけません。昔の賢者は、この一日を身命よりも大切にしたのです。

しづかにおもふべし、驪珠はもとめつべし、尺璧はうることもあらん。一生百歳のうちの一日は、ひとたびうしなはん、ふたたびうることなからん。いづれの善巧方便(ゼンギョウ ホウベン)ありてか、すぎにし一日をふたたびかへしえたる。紀事(キジ)の書にしるさざるところなり。もしいたづらにすごさざるは、日月(ニチゲツ)を皮袋(ヒタイ)に包含(ホウガン)して、もらさざるなり。

静かに考えてみなさい。驪竜の玉は求めることも出来ましょう。一尺の宝玉は得ることもあるでしょう。しかし、一生百年の中の一日は、一度失えば二度と得られないのです。どのようなうまい手段があって、過ぎた一日をまた取り返すことが出来ましょうか。歴史の書にも、そのような例は書きしるされていないのです。もし一日を徒に過ごさなければ、月日を身体に包み込んで漏らすことはないのです。

しかあるを、古聖先賢(コショウ センケン)は、日月ををしみ、光陰ををしむこと、眼睛(ガンゼイ)よりもをしむ。国土よりもをしむ。

そのために、昔の聖人や賢人たちは、月日を惜しみ時を惜しむこと、自分の眼よりも惜しみ、国土よりも惜しんだのです。

そのいたづらに蹉過(シャカ)するといふは、名利(ミョウリ)の浮世(フセイ)に濁乱(ジョクラン)しゆくなり。いたづらに蹉過せずといふは、道(ドウ)にありながら、道のためにするなり。

その月日を徒に過ごすとは、名利の浮世に惑わされていくことです。月日を徒に過ごさないとは、道にありながら道のために日々行ずることです。

すでに決了することをえたらん、又一日をいたづらにせざるべし。ひとへに道のために行取(ギョウシュ)し、道のために説取(セッシュ)すべし。

すでに道を会得した者は、また一日を無駄にしてはいけません。ひたすら道のために行じ、道のために説きなさい。

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