八大人覚(5)

(はち だいにんがく)

  これ八大人覚なり。一一各具八(イチイチ カク グハチ)、すなはち六十四あるべし。
ひろくするときは無量なるべし、略すれば六十四なり。

  これが八大人覚です。この一つ一つには、すべてこの八つの法が具わっているので、この法はつまり六十四あります。
これを広く説けば無数であり、略すれば六十四なのです。

大師釈尊、最後の説は、大乗の教誨(キョウカイ)する所、二月十五日夜半の極唱(ゴクショウ)なり。
これよりのち、さらに説法しましまさず。つひに般涅槃
(ハツネハン)しまします。

この大師釈尊の最後の教えは大乗の教えであり、二月十五日夜半の究極の説法です。
これ以後は、まったく説法なさらず、ついに入滅されました。

  仏の言(ナタマ)はく、
「汝等比丘
(ナンダチ ビク)、常に当(マサ)に一心に勤めて出道を求むべし。
一切世間の動不動の法は、皆な是れ敗懐不安
(ハイエ フアン)の相なり。
汝等 且
(シバ)らく止みね、復(マ)た語(モノイフ)こと得ること勿(ナカ)れ。
時 将
(マサ)に過ぎなんと欲す、我れ滅度(メツド)せんと欲す。是れ我が最後の教誨する所なり。」

  仏(釈尊)の言うことには、
「比丘(僧)たちよ、常に 一心に力を尽くして、六道(迷いの世界)から抜け出ようと願いなさい。
すべて世間に存在する動くもの、動かざるものは、皆壊れるもの、不安定なものである。
お前たちは暫くの間 静かにしていなさい。また話をしてはならない。
今最後の時が過ぎようとしている。私は今、煩悩を滅ぼした涅槃に入るであろう。これが私の最後の教えである。」と。

  このゆゑに、如来の弟子は、かならずこれを習学したてまつる。
これを修学せず、しらざらんは、仏弟子にあらず。
これ如来
(ニョライ)の正法眼蔵涅槃妙心(ショウボウゲンゾウ ネハンミョウシン)なり。
しかあるに、いましらざるものはおほく、見聞
(ケンモン)せることあるものはすくなきは、魔嬈(マニョウ)によりてしらざるなり。

  このことによって、仏弟子は必ずこの教えを学んできたのです。
ですから、これを学ばず、これを知らない者は、仏弟子ではありません。
これは釈尊の正法眼蔵涅槃妙心(煩悩を滅ぼす悟りの智慧)なのです。
それなのに、今では知らない者が多く、見聞きしたことのある者が少ない訳は、修行者の心が悪魔のために乱されているからです。

また宿殖善根(シュクジキ ゼンコン)のすくなきもの、きかず、みず。
むかし正法
(ショウボウ)、像法(ゾウボウ)のあひだは、仏弟子みなこれをしれり、修習し参学しき。
いまは千比丘のなかに、一両箇
(イチリョウコ)の八大人覚しれるものなし。

また過去世の善根の少ない者は、この教えを聞くことも見ることもありません。
昔、正法の修行が行われていた時代や、正法に似た修行が行われていた時代には、仏弟子は皆これを知っていて修行し学びました。
しかし今は、千人の比丘の中でも、ただ一人二人でさえ八大人覚を知っている者はいません。

あはれむべし、澆季(ギョウキ)の陵夷(リョウイ)、たとふるにものなし。
如来の正法いま大千に流布
(ルフ)して、白法(ビャクホウ)いまだ滅せざらんとき、いそぎ習学すべきなり。緩怠(カンタイ)なることなかれ。

悲しいことです。末世の仏法衰退は例えようもありません。
釈尊の正法は、今 全世界に行き渡っていますが、この正法がまだ滅しない間に、急いで学習しなさい。怠ってはいけません。

仏法にあひたてまつること、無量劫(ムリョウゴウ)にかたし。人身(ニンシン)をうること、またかたし。
たとひ人身をうくるといへども、三洲
(サンシュウ)の人身よし。そのなかに南洲(ナンシュウ)の人身すぐれたり。
見仏聞法
(ケンブツ モンポウ)、出家得道(シュッケ トクドウ)するゆゑなり。

仏法に巡り会うことは、無量の時を経ても難しいのです。そして、人間として生まれることもまた難しいのです。
たとえ人間として生まれても、東方 西方 北方の三世界の人間は優れていますが、中でも南方世界の人間はさらに優れています。
何故なら、仏に見えて法を聞くことができ、出家して悟ることが出来るからです。

如来の般涅槃よりさきに涅槃にいり、さきだちて死せるともがらは、この八大人覚をきかず、ならはず。
いまわれら見聞したてまつり、習学したてまつる、宿殖善根のちからなり。
いま習学して生生
(ショウジョウ)に増長し、かならず無上菩提(ムジョウボダイ)にいたり、衆生(シュジョウ)のためにこれをとかんこと、釈迦牟尼仏(シャカムニブツ)にひとしくしてことなることなからん。

釈尊の入滅より先に入滅し、先だって死んだ仲間は、この八大人覚を聞かず習いませんでした。
今、我々がこの教えを見聞きし、学習できるのは、過去世の善根力のお陰なのです。
ですから、今学習して、生まれ変わるたびにその功徳を増長し、必ず無上の悟りに至り、そして釈尊のように、衆生のためにこの教えを説くのです。

正法眼蔵 八大人覚 第十二 

  彼の本の奥書(オクガキ)に曰(イハ)く。
建長五年正月六日、永平寺に于
(オイ)て書す。
如今
(イマ)、建長七年乙卯(キノト ウ)、解制の前日、義演書記(ギエン ショキ)をして書写せしめ畢(オハ)んぬ。
同じく之
(コレ)を一校せり。

  本書の奥書きに言う。
建長五年一月六日、永平寺に於て書く。
今、建長七年、解制の前日に、義演書記に書写させ終り、同じくこれを一校正した。

右の本は、先師最後の御病中の御草なり。
仰ぎ以
(オモン)みるに、前(サキ)に撰ずる所の仮字正法眼蔵等、皆書き改め、竝(ナラ)びに新草 具(ツブ)さに都盧(トロ)一百卷、之を撰ずべしと云云(ウンヌン)

右の本は、先師最後の病中の御起草である。
仰いで考えるに、先師は以前に撰述した仮名正法眼蔵などを皆書き改め、並びに新たに起草して、すべて合わせて一百卷を撰述しようとしたようである。

既に始草の御(オン)(コ)の卷は、第十二に当たれり。
此の後、御病漸漸
(ゼンゼン)に重増ジュウゾウ)したまふ。
(ヨ)って御草案等の事も即ち止みぬ。
所以
(ユエ)に此の御草等は、先師最後の教勅(キョウチョク)なり。  

すでに起草されたこの卷は、第十二に当たる。
この後は、御病状がしだいに重くなられたので、御草案等の計画もそこで中止されたのである。
故にこの御草案等は、先師最後の教えである。

我等不幸にして一百卷の御草を拝見せず、尤(モット)も恨むる所なり。
(モ)し先師を恋慕し奉らん人は、必ず此の十二卷を書して、之(コレ)を護持すべし。
此れ釈尊最後の教勅にして、且
(カ)つ先師最後の遺教(ユイキョウ)なり。
懐弉
(エジョウ)之を記す。

我々は不幸にして、先師の一百卷の御起草を拝見できなかったことを、最も残念に思う。
もし先師を恋慕している人であれば、必ずこの十二巻を書写して護持しなさい。
これは釈尊最後の教えであり、また先師最後の遺教である。
懐弉これを記す。

八大人覚おわり。

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