発菩提心(4)

(ほつぼだいしん)

衆生(シュジョウ)を利益(リヤク)すといふは、衆生をして自未得度先度他(ジミトクドセンドタ)のこころをおこさしむるなり。

人々を利益するとは、人々に自未得度先度他(自らが悟りの浄土へ渡る前に、先ず他を渡す)の心を起こさせることです。

自未得度先度他の心をおこせるちからによりて、われほとけにならんとおもふべからず。

しかし、自未得度先度他の心を起こした功徳で、自分は仏になると思ってはいけません。

たとひほとけになるべき功徳(クドク)熟して円満すべしといふとも、なほめぐらして衆生の成仏得道(ジョウブツ トクドウ)に回向(エコウ)するなり。

たとえ仏になるための功徳が十分に熟しても、尚 心を回らして、人々が仏となり悟りを得るように努めるのです。

この心、われにあらず、他にあらず、きたるにあらずといへども、この発心(ホッシン)よりのち、大地を挙(コ)すればみな黄金となり、大海をかけばたちまちに甘露となる。

この自未得度先度他の心は、自分でもなく、他のものでもなく、やって来たものでもありませんが、この発心以後、大地は皆 黄金となり、大海は忽ち甘露の水に変わるのです。

これよりのち、土石砂礫(ドシャク シャリャク)をとる、すなはち菩提心を拈来(ネンライ)するなり。水沫泡焰(スイマツ ホウエン)を参ずる、したしく菩提心を担来(タンライ)するなり。

この発心以後、土石 砂礫を手に取ることは、菩提心を手に取ることであり、水沫 泡炎を学ぶことは、親しく菩提心を学ぶこととなるのです。

しかあればすなはち、国城妻子、七宝男女(シッポウ ナンニョ)、頭目髄脳(トウモク ズイノウ)、身肉手足をほどこす、みな菩提心の閙聒聒(ニョウカツカツ)なり。菩提心の活撥撥(カッパツパツ)なり。

ですから、先人たちが国城 妻子、七宝 男女、頭目 脳髄、身肉 手足などを衆生に施した行いは、皆 菩提心の生き生きとした働きであったのです。

いまの質多慮知(シッタ リョチ)の心、ちかきにあらず、とほきにあらず、みづからにあらず、他にあらずといへども、この心をもて、自未得度先度他の道理にめぐらすこと不退転なれば、発菩提心なり。

先ほどの質多 慮知の心(考え知る心)は、近いものでも遠いものでもなく、自己でも他のものでもありませんが、この心を自未得度先度他の道理に回らして退くことが無ければ、まさに発菩提心(菩提心を起こす)なのです。

しかあれば、いま一切衆生の我有(ガウ)と執せる草木瓦礫(ソウモク ガリャク)、金銀珍宝(コンゴン チンポウ)をもて菩提心にほどこす、また発菩提心ならざらめや。

ですから、今すべて人々が我が物と執している草木 瓦礫に等しきものや、金銀 珍宝などを菩提心のために施すことも、また発菩提心なのです。

心および諸法、ともに自他共無因(ジタグムイン)にあらざるがゆゑに、もし一刹那(イチセツナ)この菩提心をおこすより、万法みな増上縁(ゾウジョウエン)となる。

心と世のあらゆるものは、皆すべて原因無くして生じたものではないので、もし一刹那この菩提心を起こせば、すべてのものが皆、その人を助けてくれる善縁となるのです。

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