発菩提心(6)

(ほつぼだいしん)

衆生(シュジョウ)の寿行(ジュギョウ)、生滅(ショウメツ)してとどまらず、すみやかなること、
 世尊在世
(セソン ザイセ)に一比丘(イチ ビク)あり。仏の所に来詣(キタ)りて、双(フタ)つの足を頂礼(チョウライ)し、却(カエ)って一面に住(ジュウ)して、世尊に白(モウ)して言(モウ)さく。

衆生の寿命が速やかに生滅して止まらないことについて。
世尊(釈尊)が世に在りし時に、一人の比丘(出家)が仏の所に来て二つの足を礼拝し、一方に下がって世尊に申し上げました。

「衆生の寿行、云何(イカン)が速疾(スミヤカ)に生滅するや。」
仏の言
(ノタマ)はく、「我れ能(ヨ)く宣説(センゼツ)するも、汝(ナンジ)知ること能(アタ)はじ。」

「衆生の寿命は、どのように速やかに生滅するのでしょうか。」
仏は答えて、「私が説いても、お前は知ることが出来ないであろう。」

比丘の言(モウ)さく、「頗(スコブ)る譬喩(ヒユ)の能く顕示(ケンジ)しつべき有りや不(イナ)や。」
仏の言
(ノタマ)はく、「有り。今汝が為に説かん。」

比丘が言うには、「それでは例えによって明らかに示すことが出来るでしょうか。」
仏は答えて、「それなら出来る。今お前の為に説こう。」

「譬(タト)へば、四(ヨタリ)の善き謝夫(シャフ)の各(オノオノ)弓箭(ユミヤ)を執(ト)り、相背(アイ ソム)きて攢(アツマ)り立ちて四方を射んと欲(セ)んに、一(ヒトリ)の捷(ハヤ)き夫(フ)ありて来りて之(コレ)に語(ツ)げて、汝等(ナンジラ)今、一時に箭(ヤ)を放つべし、我れ能く遍(アマネ)く接(ト)りて、俱(トモ)に堕せざらしめんと曰(イハ)んが如し。

「例えば四人の弓の名手がそれぞれ弓を取り、互いに背を向けて集まって立ち、四方に矢を射ろうとしている時に、一人の足の速い男が来て、「お前たちは今同時に矢を放ちなさい。私がすべての矢を落ちないように取って見せよう。」と言ったとする。

(ココロ)に於いて云何(イカン)、此(コ)れは捷疾(ショウシツ)なりや不(イナ)や。」
比丘、仏に白さく、「甚
(ハナハダ)だ疾(ハヤ)し、世尊。」

これをどう考えるか。この男の足は速いであろうか。」
比丘は仏に答えました。「世尊よ、それは甚だ速いです。」

仏の言(ノタマ)はく、「彼(カ)の人の捷疾なること、地行夜叉(ジギョウ ヤシャ)に及ばず。地行夜叉の捷疾なること、空行夜叉(クウギョウ ヤシャ)に及ばず。空行夜叉の捷疾なること、四天王天の捷疾なるに及ばず。

仏の言うには、「その男の速さは地行夜叉に及ばず、地行夜叉の速さは空行夜叉に及ばず、空行夜叉の速さは四天王天の速さに及ばない。

彼の天の捷疾なること、日月二輪(ニチガツ ニリン)の捷疾なるに及ばず。日月二輪の捷疾なること、堅行天子(ケンギョウ テンシ)の捷疾なるに及ばず。此れは是れ、日月輪の車を導引する者なり。

その天の速さは太陽と月の速さに及ばず、太陽と月の速さは堅行天子の速さに及ばない。この天子は太陽と月の車を引く者である。

此等(コレラ)の諸天、展転(テンデン)して捷疾なるも、寿行の生滅は、彼(カレ)よりも捷疾なり。刹那に流転(ルテン)して、暫くも停まること有ること無し。」

これらの諸天が次々に速くても、寿命の生滅はそれよりも速いのである。刹那に移り変わって暫くも止まることは無い。」

われらが寿行生滅、刹那流転、捷疾なることかくのごとし。念々のあひだ、行者(ギョウジャ)この道理をわするることなかれ。

我々の寿命の生滅が刹那に移り変わって速いことはこの通りです。日常に修行者はこの道理を忘れてはいけません。

この刹那生滅、流転捷疾にありながら、もし自未得度先度他(ジミトクド センドタ)の一念をおこすごときは、久遠(クオン)の寿量(ジュリョウ)、たちまちに現在前(ゲンザイゼン)するなり。

このように刹那に生滅して速やかに移り変わる寿命でありながら、もし自未得度先度他(自らが悟りの浄土へ渡る前に、先ず他を渡す)の一念を起こせば、久遠の寿命が忽ち現れるのです。

三世十方(サンゼ ジッポウ)の諸仏、ならびに七仏世尊、および西天(サイテン)二十八祖、東地六祖、乃至(ナイシ)伝正法眼蔵(デン ショウボウゲンゾウ)涅槃妙心(ネハン ミョウシン)の祖師、みなともに菩提心を保任(ホニン)せり。いまだ菩提心をおこさざるは祖師にあらず。

三世十方(過去現在未来のあらゆる所)の諸仏、過去に出現したの七人の仏、インドの二十八代の祖師、中国の六代の祖師など、正法眼蔵涅槃妙心(仏法の真髄、悟りの心)を伝えた祖師は、皆すべて菩提心を護持していました。菩提心を起こしていない者は祖師ではないのです。

発菩提心(5)へ戻る

発菩提心(7)へ進む

ホームへ