一百八法明門(3)

(いっぴゃくはち ほうみょうもん)

(カ)の大微妙(ダイミミョウ)なる師子の高座に、菩薩は上に坐して、一切の諸天衆に告げて言(ノタマ)はく、
「汝等諸天
(ナンダチ ショテン)よ、今 此(コ)の一百八法明門は、一生補処(イッショウ ホショ)の菩薩大士(ボサツ ダイシ)の、兜率宮(トソツグウ)に在(ア)りて、下りて人間(ニンゲン)に託生(タクショウ)せんと欲(ホッ)する者の、天衆(テンシュ)の前に於て、要(カナ)らず須(スベカ)らく、此の一百八法明門を宣暢(センチョウ)して説くべし。諸天に留与(リュウヨ)して、以て憶念(オクネン)を作(ナ)さしめ、然(シカ)して後に下生(ゲショウ)すべし。

その甚だ美しき獅子の高座の上に護明菩薩は座り、すべての諸天衆に告げた。
「お前たち諸天よ、この一百八法明門(百八の聖者の道に入る門)は、一生補処(仏の候補)の菩薩で、兜率天から下って人間の胎に生まれようとする者が、天人衆の前で必ず説く教えなのである。この教えを諸天に残し、心に深く留めて忘れないようにして、その後に下界に生まれるのである。

汝等諸天よ、今 至心(シシン)に諦聴(タイチョウ)し諦受(タイジュ)すべし、我今 之(コレ)を説かん。一百八法明門とは何ぞや。

お前たち諸天よ、今 心してよく聞き、よく受け取りなさい。
私は今この教えを説こう。一百八法明門とは何かと言えば、

正信(ショウシン)は是れ法明門、堅牢(ケンロウ)の心を破らざるが故に。

(1)正法を信ずることは法明門(聖者の道に入る門)である。それは堅固な信心を破らないからである。

浄心(ジョウシン)は是れ法明門、濁穢(ジョクエ)無きが故に。

(2)清浄な心は法明門である。それは煩悩の穢れが無いからである。

歓喜(カンギ)は是れ法明門、安穏の心なるが故に。

(3)仏法を歓喜することは法明門である。それは安穏の心を得るからである。

愛楽(アイギョウ)は是れ法明門、心を清浄(ショウジョウ)ならしむるが故に。

(4)善法を愛し願うことは法明門である。それは心を清浄にするからである。

身行正行(シンギョウ ショウギョウ)は是れ法明門、三業(サンゴウ)浄きが故に。

(5)身の行いが正しいことは法明門である。それは三業(身と口と心の行い)が清浄だからである。

口行浄行(クギョウ ジョウギョウ)は是れ法明門、四悪(シアク)を断ずるが故に。

(6)口の行いが清浄であることは法明門である。それは四悪(殺生、偸盗、邪淫、妄語)の罪を断つからである。

意行浄行(イギョウ ジョウギョウ)は是れ法明門、三毒(サンドク)を断ずるが故に。

(7)心の行いが清浄であることは法明門である。それは三毒(貪欲、瞋恚、愚痴)を断つからである。

念仏は是れ法明門、仏を観ずること清浄なるが故に。

(8)仏を念じることは法明門である。それは仏を見ることが清浄だからである。

念法(ネンポウ)は是れ法明門、法を観ずること清浄なるが故に。

(9)法を念じることは法明門である。それは法を見ることが清浄だからである。

念僧は是れ法明門、道を得ること堅牢なるが故に。

(10)僧団を念じることは法明門である。それは仏道を得ることが堅固だからである。

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