一百八法明門(4)

(いっぴゃくはち ほうみょうもん)

念施(ネンセ)は是れ法明門、果報を望まざるが故に。

(11)他者に施しを与える功徳を念じることは法明門(聖者の道に入る門)である。それは施しの果報を望まないからである。

念戒(ネンカイ)は是れ法明門、一切の願を具足するが故に。

(12)戒の功徳を念じることは法明門である。それはすべての願いを円満するからである。

念天(ネンテン)は是れ法明門、広大心を発するが故に。

(13)天界を念じることは法明門である。それは広大な心を起こすからである。

慈は是れ法明門、一切の生処(ショウショ)に善根摂勝(ゼンゴン ショウショウ)するが故に。

(14)慈心(衆生に楽を与えること)は法明門である。それはすべての衆生の生まれる所で、善根が勝利するからである。

悲は是れ法明門、衆生(シュジョウ)を殺害((セツガイ)せざるが故に。

(15)悲心(衆生の苦を抜くこと)は法明門である。それは衆生を殺害しないからである。

喜は是れ法明門、一切不喜の事を捨(シャ)するが故に。

(16)喜心(他の喜びを見て喜ぶこと)は法明門である。それはすべての喜ばざる事を捨てるからである。

捨は是れ法明門、五慾(ゴヨク)を厭離(エンリ)するが故に。

(17)捨心(憎愛の無いこと)は法明門である。それは五欲(眼耳鼻舌身の欲)を厭い離れるからである。

無常観は是れ法明門、三界(サンガイ)の慾を観ずるが故に。

(18)世の無常を観じることは法明門である。それは三界(欲望 物質 精神の三世界。世間のこと。)の欲を離れるからである。

苦観は是れ法明門、一切の願を断ずるが故に。

(19)世の苦を観じることは法明門である。それはすべての願いを断つからである。

無我観は是れ法明門、我に染著(センジャク)せざるが故に。

(20)無我を観じることは法明門である。それは我執に染まらないからである。

寂定観(ジャクジョウカン)は是れ法明門、心意を擾乱(ジョウラン)せざるが故に。

(21)すべては静寂であると観じることは法明門である。それは心を乱すことがないからである。

慚愧(ザンキ)は是れ法明門、内心寂定なるが故に。

(22)慚愧(罪過を恥じること)は法明門である。それは内心が静寂だからである。

羞恥(シュウチ)は是れ法明門、外悪(ゲアク)を滅するが故に。

(23)羞恥(自らを恥じること)は法明門である。それは外の悪事を滅ぼすからである。

実は是れ法明門、天人を誑(タブラ)かさざるが故に。

(24)真実なることは法明門である。それは天や人を誑かさないからである。

真は是れ法明門、自身を誑かさざるが故に。

(25)真理は法明門である。それは自分を誑かさないからである。

法行(ホウギョウ)は是れ法明門、法行に随順するが故に。

(26)仏法に随い行くことは法明門である。それは仏法の行いに随順するからである。

三帰は是れ法明門、三悪道を浄(キヨ)からしむるが故に。

(27)三帰(仏 仏法 僧団の三に帰依すること)は法明門である。それは三悪道(地獄 餓鬼 畜生の三道)を清浄にするからである。

智恩(チオン)は是れ法明門、善根を捨てざるが故に。

(28)恩を知ることは法明門である。それは善根を捨てないからである。

報恩は是れ法明門、他を欺負(ギフ)せざるが故に。

(29)恩に報いることは法明門である。それは他を欺き背くことがないからである。

不自欺(フジキ)は是れ法明門、自ら誉めざるが故に。

(30)自らを欺かないことは法明門である。それは自らを誉めることがないからである。

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