一百八法明門(6)

(いっぴゃくはち ほうみょうもん)

無生忍(ムショウニン)是れ法明門、滅諦(メッタイ)を証するが故に。

(51)無生忍(すべてのものは生じること無く滅することも無いと観じて、それに住すること)は法明門(聖者の道に入る門)である。それは滅諦(煩悩を滅ぼした涅槃の真理)を証明するからである。

身念処(シンネンジョ)是れ法明門、諸法寂静(ショホウ ジャクジョウ)なるが故に。

(52)身念処(四念処の一。身体は不浄であると観じること)は法明門である。それはあらゆるものが静寂だからである。

(四念処とは、心を一点に集中することで妄念を防ぎ、真理を悟る四種の方法。)

受念処(ジュネンジョ)是れ法明門、一切の諸受を断ずるが故に。

(53)受念処(四念処の二。好悪等の感受作用はすべて苦であると観じること)は法明門である。それはすべての感受作用を断つからである。

心念処(シンネンジョ)是れ法明門、心を観ること幻化(ゲンケ)の如きが故に。

(54)心念処(四念処の三。心は消滅して無常であると観じること)は法明門である。それは心を幻のように見るからである。

法念処(ホウネンジョ)是れ法明門、智慧無翳(ムエイ)なるが故に。

(55)法念処(四念処の四。すべてのものは無我であると観じること)は法明門である。それは智慧に影が無いからである。

四正懃(シショウゴン)是れ法明門、一切の悪を断じて諸善を成ずるが故に。

(56)四正懃(心を調えて善を増し悪を退ける四種の修養法)は法明門である。それはすべての悪を断って多くの善を生むからである。

(四正懃とは、
一、まだ生じていない悪は、それを生じさせないように精進する。
二、すでに生じた悪は、それを断とうと精進する。
三、まだ生じていない善は、それを起こそうと精進する。
四、すでに生じた善は、それを増長させようと精進する。)

四如意足(シニョイソク)是れ法明門、身心(シンジン)軽きが故に。

(57)四如意足(意のままの禅定を得る四種の方法)は法明門である。それは身も心も軽いからである。

(四如意足とは、
一、欲如意足。意のままの禅定を願い求めること。
二、精進如意足。精進して意のままの禅定を得ること。
三、心如意足。心を治めて意のままの禅定を得ること。
四、思惟如意足。正しい道理を思惟して意のままの禅定を得ること。)

信根(シンコン)是れ法明門、他語に随はざるが故に。

(58)信根(五根の一。仏道を深く信じること。)は法明門である。それによって他の言葉に従わないからである。

(五根とは、清浄にして煩悩の無い聖者の道へ向かわせる五種の能力。)

精進根(ショウジンコン)是れ法明門、善く諸の智を得るが故に。

(59)精進根(五根の二。仏道に精進勉励すること。)は法明門である。それによって多くの智慧を得るからである。

念根(ネンコン)是れ法明門、善く諸の業(ゴウ)を作すが故に。

(60)念根(五根の三。教えを念じて忘れないこと。)は法明門である。それは多くの行いを良くなすからである。

定根(ジョウコン)是れ法明門、心清浄(シン ショウジョウ)なるが故に。

(61)定根(五根の四。禅定によって身心が動揺しないようにすること。)は法明門である。それは心が清浄だからである。

慧根(エコン)是れ法明門、現に諸法を見るが故に。

(62)慧根(五根の五。正しい智慧。)は法明門である。それはありのままにすべてのものを見るからである。

信力(シンリキ)是れ法明門、諸の摩力(マリキ)に過ぐるが故に。

(63)信力(五力の一。仏道を信じる力)は法明門である。それはすべての魔の力を超えているからである。

(五力とは、煩悩の解脱へ導く五つの力。)

精進力(ショウジンリキ)是れ法明門、不退転なるが故に。

(64)精進力(五力の二。仏道に精進勉励する力)は法明門である。それは退くことが無いからである。

念力(ネンリキ)是れ法明門、他と共ならざるが故に。

(65)念力(五力の三。教えを念じて忘れない力)は法明門である。仏道は他と同じではないからである。

定力(ジョウリキ)是れ法明門、一切の念を断ずるが故に。

(66)定力(五力の四。心を調える禅定の力)は法明門である。それはすべての念を断つからである。

慧力(エリキ)是れ法明門、二辺を離るるが故に。

(67)慧力(五力の五。正しい智慧の力)は法明門である。それは有と無、得と失などの対立した二つの見解を離れるからである。

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