一百八法明門(9)

(いっぴゃくはち ほうみょうもん)

入一切行(ニュウ イッサイギョウ)是れ法明門、仏眼(ブツゲン)を得て成就(ジョウジュ)するが故に。

(102)すべての菩薩行は法明門(聖者の道に入る門)である。それは仏の智慧の眼を獲得し、成就するからである。

成就陀羅尼(ジョウジュ ダラニ)是れ法明門、一切の諸仏の法を聞いて、能(ヨ)く受持するが故に。

(103)陀羅尼(善を守り悪を退ける法)を成就することは法明門である。それはすべての諸仏の法を聞いて、良く保つからである。

得無礙弁(トク ムゲベン)是れ法明門、一切の衆生(シュジョウ)をして皆 歓喜(カンギ)せしむるが故に。

(104)融通無碍な弁舌を得ることは法明門である。それはすべての衆生を皆歓喜させるからである。

順忍(ジュンニン)是れ法明門、一切の諸仏の法に順(シタガ)ふが故に。

(105)すべてのものは生ずること無く滅することも無い、という道理に従うことは法明門である。それはすべての諸仏の法に従うことだからである。

得無生法忍(トク ムショウホウニン)是れ法明門、受記(ジュキ)を得るが故に。

(106)すべてのものは生ずること無く滅することも無い、という道理を悟ることは法明門である。それは仏の受記(将来成仏するという予言)を得るからである。

不退転地(フタイテンチ)是れ法明門、往昔(オウシャク)の諸仏の法を具足するが故に。

(107)退くことのない悟りを得ることは法明門である。それは昔の諸仏の法が具わるからである。

従一地至一地智(ジュウ イチジ シ イチジチ)是れ法明門、灌頂(カンジョウ)して一切智を成就するが故に。

(108)菩薩修行の段階的境地を一つ一つ登る智慧は法明門である。それはついに灌頂(菩薩修行の階位を満たした印として頭頂に水を注ぐこと。)を受けて仏の完全な智慧を成就するからである。

灌頂地(カンジョウチ)是れ法明門、生(ウマ)れて出家する従(ヨ)り、乃至(ナイシ)阿耨多羅三藐三菩提(アノクタラサンミャクサンボダイ)を得成(トクジョウ)するが故に。

(109)灌頂地(灌頂を受けることが出来る菩薩の最高位)は法明門である。それは生まれて出家してから、遂には仏の無上の悟りを成就するからである。

(ソ)の時に護明菩薩(ゴミョウ ボサツ)、是の語を説き已(オワ)って、一切の諸天衆(ショテンシュ)に告げて言(ノタマハ)く、
「諸天 当
(マサ)に知るべし、此(コ)れは是(コ)れ一百八法明門、諸天に留与(リュウヨ)す。汝等(ナンダチ)受持し、心に常に憶念(オクネン)して、忘失(モウシツ)せしむること勿(ナカ)れ。」 

その時に護明菩薩は、この教えを説き終わると、すべての天人衆に告げた。
「諸天よ知りなさい、これが一百八法明門である。この教えを諸天に留めて授ける。お前たちはこの教えを保ち、心に常に念じて、決して忘れてはならない。」と。

  これすなはち一百八法明門なり。一切の一生所繫(イッショウ ショケ)の菩薩、都史多天(トシタテン)より閻浮提(エンブダイ)に下生(ゲショウ)せんとするとき、かならずこの一百八法明門を、都史多天の衆(シュ)のために敷揚(シヨウ)して諸天を化(ケ)するは、諸仏の常法(ジョウホウ)なり。

  これが一百八法明門です。すべての一生所繋(次には仏となる菩薩が一生を過ごす場所)の菩薩が、都史多天(兜率天)から閻浮提(人間界)に下って生まれようとする時には、必ずこの一百八法明門を都史多天の天衆のために説いて、諸天を教化することが、諸仏のしきたりなのです。

護明菩薩とは、釈迦牟尼仏(シャカムニブツ)、一生補処(イッショウ ホショ)として、第四天にましますときの名なり。李附馬(リフバ)、天聖広燈録(テンショウ コウトウロク)を撰(セン)するに、この一百八法明門の名字(ミョウジ)をのせたり。参学のともがら、あきらめしれるはすくなく、しらざるは稲麻竹葦(トウマ チクイ)のごとし。

護明菩薩とは、釈迦牟尼仏が、一生補処(次の生には仏となる菩薩)として、第四天(兜率天)におられた時の名前です。李附馬は天聖広燈録(禅の法燈を明らかにした書)を著した時に、この一百八法明門を載せました。参禅学道の仲間で、この教えを明らかに知っている者は少なく、知らない者ばかりです。

いま初心晩学のともがらのためにこれを撰す。師子(シシ) の座にのぼり、人天(ニンデン)の師となれらんともがら、審細(シンサイ)参学(サンガク)すべし。この都史多天(トシタテン)に一生所繋として住せざれば、さらに諸仏にあらざるなり。行者(ギョウジャ)みだりに我慢することなかれ。一生所繋の菩薩は中有(チュウウ)なし。

ですから今、仏道を学んでいる初心や晩学の仲間のために、これを書いたのです。説法の座に上って人間界天上界の師となろうとする者たちは、これを詳しく学びなさい。この都史多天に一生所繋として住むことがなければ、それは決して諸仏ではありません。ですから、修行者はみだりに自ら慢心してはいけません。一生所繋の菩薩には中有(死んでから次の生を受けるまでの期間)は無いのです。

正法眼蔵 一百八法明門 第十一

一百八法明門おわり

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