深信因果(10)

おほよそこの因縁に、頌古(ジュコ)拈古(ネンコ)のともがら三十余人あり。一人としても、不落因果(フラク インガ)これ撥無因果(ハツム インガ)なりとうたがふものなし。あはれむべし、このともがら、因果をあきらめず、いたづらに紛紜(フンウン)のなかに一生をむなしくせり。

およそ、この百丈禅師の因縁話に対して、称揚の言葉や評釈を述べた仲間は、三十人余りありますが、一人として、「因果に落ちない」という言葉が因果を否定するものであると疑う者はありません。哀れなことです、この者たちは因果の道理を明らかにしないで、いたずらに混乱した考えの中で、一生を空しく送っているのです。

仏法参学には、第一因果をあきらむるなり。因果を撥無するがごときは、おそらくは猛利の邪見をおこして、断善根とならんことを。

仏法を学ぶには、まず第一に因果の道理を明らかにすることです。因果を無視する者は、おそらく甚だ悪しき考えを起こして、自らの善根を断つことになるでしょう。

おほよそ因果の道理、歴然(レキネン)としてわたくしなし。造悪のものは堕し、修善(シュゼン)のものはのぼる、毫釐(ゴウリ)もたがはざるなり。

およそ因果の道理は明白であり、私心の入る隙はないのです。悪をなす者は堕ち、善を修める者は昇るのです。この道理は毛筋ほども食い違うことはありません。

もし因果亡じ、むなしからんがごときは、諸仏の出世あるべからず、祖師の西来(セイライ)あるべからず、おほよそ衆生(シュジョウ)の見仏聞法(ケンブツ モンポウ)あるべからざるなり。

もし因果が無く、その道理が空しいものであれば、諸仏が世に出ることもなく、祖師達磨がインドからやって来て法を伝えることもなく、だいたい人々が仏に見えて法を聞くこともなかったのです。

因果の道理は、孔子老子(コウシ ロウシ)等のあきらむるところにあらず、ただ仏仏祖祖あきらめつたへましますところなり。澆季(ギョウキ)の学者薄福にして、正師(ショウシ)にあはず、正法(ショウボウ)をきかず。このゆゑに、因果をあきらめざるなり。

この因果の道理は、孔子や老子などが明らかにしたのではありません。ただ諸仏や祖師だけが明らかにして伝えてこられたのです。末世に学ぶ者は、不幸にして正法の師に会わず、正法を聞くこともありません。このために因果の道理を明らかに出来ないのです。

撥無因果すれば、このとがによりて、莾莾蕩蕩(モウモウ トウトウ)として殃過(オウカ)をうくるなり。撥無因果のほかに、余悪いまだつくらずといふとも、まづこの見毒はなはだしきなり。

因果を無視すれば、この咎によって限りなく多くの災いを受けるのです。因果を無視することの他に悪をなさなくても、まずこの誤った考えによる害毒が甚だしいのです。

しかあればすなはち、参学のともがら、菩提心(ボダイシン)をさきとして、仏祖の洪恩(コウオン)を報ずべくは、すみやかに諸因諸果をあきらむべし。

ですから仏道を学ぶ仲間は、菩提心(道心)を第一にして、仏祖の大恩に報いるために、速やかに諸々の因、諸々の果を明らかにしなさい。

正法眼蔵 深信因果
彼の御本の奥書きに云く、建長七年乙卯
(キノト ウ)夏安居(ゲアンゴ)の日、御草案を以て之を書写す。未だ中書の清書に及ばず、定めて再治すべき事有り。然りと雖も之を書写す。懐弉(エジョウ)

正法眼蔵 深信因果 
その御本のあとがきに言う。建長七年、夏の修行期間中に、御草案を書写した。まだ中書の清書がされていないので、必ず再検討すべきものである。そうではあるが、これを書写した。懐弉

深信因果おわり。

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