谿声山色(12)

又 西天(サイテン)の祖師、おほく外道(ゲドウ) 二乗 国王等のためにやぶられたるを。これ外道のすぐれたるにあらず。祖師に遠慮なきにあらず。

又インドの祖師の多くが、外道や小乗の徒、国王などのために害されたことを知りなさい。これは外道が優れていたからではなく、祖師に先々までの思慮が無かったからでもありません。

初祖西来よりのち、嵩山(スウザン)に掛錫(カシャク)するに、梁武(リョウブ)もしらず、魏王(ギオウ)もしらず。ときに両箇(リョウコ)のいぬあり。いはゆる、菩提流支三蔵(ボダイルシ サンゾウ)と光統律師(コウヅ リッシ)となり。

初祖達磨は中国に来て後、嵩山の少林寺に止まりましたが、梁の武帝も魏の国王も、そのことを知りませんでした。当時、愚かな犬のような二人の人物がいました。いわゆる菩提流支三蔵と光統律師です。

虚名邪利(コミョウ ジャリ)の正人(ショウニン)にふさがれんことをおそりて、あふぎて天日をくらまさんと擬するがごとくなりき。在世の達多(ダッタ)よりもなほはなはだし。

彼等は、自らの虚名と邪まな利益を、達磨という正しき人に塞がれることを恐れて、天を仰いで太陽を隠そうとするような愚かなことをしました。それは釈尊在世当時の提婆達多よりも更に甚だしいものでした。

あはれむべし、なんぢが深愛する名利(ミョウリ)は、祖師これを糞穢(フンネ)よりもいとふなり。

哀れなことです。おまえたちが深く愛する名利は、祖師が糞便よりも嫌ったものである。

かくのごとくの道理、仏法の力量の究竟(クキョウ)せざるにはあらず、良人(リョウニン)をほゆるいぬありとしるべし。ほゆるいぬをわづらふことなかれ、うらむることなかれ。引導の発願(ホツガン)すべし。

世間にはこのような者がいるという道理は、仏法の力が及ばないからではなく、善良な人間を吠える犬もいるということを知りなさい。吠える犬を悩んだり怨んだりしてはいけません。仏道に導こうと発願しなさい。

「汝は是れ畜生、菩提心(ボダイシン)を発(オ)こせ。」と施設(セセツ)すべし。先哲いはく、「これはこれ人面(ニンメン)畜生なり。」 又 帰依供養する魔類もあるべきなり。

「おまえは畜生である、菩提心を起こしなさい。」と教え導きなさい。先哲は、このような者を「これは人の顔をした畜生である。」と言いました。又、仏祖に帰依し供養する魔の類も、きっとあるものです。

前仏いはく、「不親近(フシンゴン)国王、王子、大臣、官長、婆羅門(バラモン)、居士(コジ)。」 まことに仏道を学習せん人、わすれざるべき行儀(ギョウギ)なり。菩薩初学の功徳、すすむるにしたがうてかさなるべし。

先の釈尊の言われるには、「国王、王子、大臣、官長、バラモン教徒、居士などと親密になってはならない。」と。 これは実に、仏道を学ぶ人の忘れてはならない行儀です。こうして初心の菩薩の功徳は、修行が進むに従って重なることでしょう。

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