谿声山色(7)

長沙景岑禅師(チョウシャ ケイシン ゼンジ)に、ある僧とふ、「いかにしてか山河大地(センガ ダイチ)を転じて自己に帰せしめん。」
師いはく、「いかにしてか自己を転じて山河大地に帰せしめん。」

長沙景岑禅師に、ある僧が尋ねました。「どうすれば、山河大地を転換して自己に出来ましょうか。」
師は答えました、「どうすれば、自己を転換して山河大地に出来るかである。」

いまの道趣(ドウシュ)は、自己のおのづから自己にてある、自己たとひ山河大地といふとも、さらに所帰(ショキ)に罣礙(ケイゲ)すべきにあらず。

この言葉の意図するところは、自己が自ずから自己であれば、自己をたとえ山河大地であると言っても、まったく差し支えないと言うことです。

瑯揶(ロウヤ)の広照大師(コウショウ ダイシ) 慧覚和尚(エガク オショウ)は、南嶽(ナンガク)の遠孫(オンソン)なり。
あるとき、教家
(キョウケ)の講師 子璿(シセン)とふ、「清浄(ショウジョウ)なるが本然(ホンネン)なれば、云何(イカン)が忽(タチマ)ち山河大地を生ずるや。」

瑯揶の広照大師 慧覚和尚は、南嶽(懐譲)の流れを汲む法孫です。
ある日、教家(経典の教えに基づく宗派)の講師 子璿が慧覚に尋ねました。「清浄が本性であれば、どうしてたちまち山河大地が生じるのでしょうか。」

かくのごとくとふに、和尚しめすにいはく、「清浄なるが本然なれば、云何が忽ち山河大地を生ずるや。」

このように尋ねると、和尚が教えて言うには、「清浄が本性であれば、どうしてたちまち山河大地が生じるというのか。」

ここにしりぬ、清浄本然なる山河大地を山河大地とあやまるべきにあらず。

ここで知られることは、清浄を本性とする山河大地を、山河大地と誤ってはならないということです。

しかあるを経師かつてゆめにもきかざれば、山河大地を山河大地としらざるなり。

このことを経書の講師たちは、曽て夢にも聞いたことがないので、山河大地を清浄な山河大地と知らないのです。

しるべし、山色谿声にあらざれば、拈崋(ネンゲ)も開演せず、得髄(トクズイ)も依位(エイ)せざるべし。

知ることです、清浄な山色 谿声でなければ、釈尊が花を手に取って迦葉に法を託したことや、慧可が達磨を礼拝してその髄を得たということもなかったでしょう。

谿声山色の功徳によりて、大地有情(ダイチ ウジョウ)同時成道(ドウジ ジョウドウ)し、見明星悟道(ケン ミョウジョウ ゴドウ)する諸仏あるなり。

この谿声山色の功徳によって、大地と衆生が同時に仏道を成就したり、暁の明星を見て悟道する仏たちがおられるのです。

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