帰依三宝(13)

(きえ さんぼう)

  これを天帝拝畜為師(テンタイ ハイチク イシ)の因縁(インネン)と称(ショウ)す。あきらかにしりぬ、仏名(ブツミョウ)、法名(ホウミョウ)、僧名(ソウミョウ)のききがたきこと、天帝の野干(ヤカン)を師とせし、その証なるべし。

  これを、帝釈天が畜類を礼拝して師とした因縁と言います。この話から明らかに知られることは、仏(仏陀)という呼び名、法(仏法)という呼び名、僧(僧団)という呼び名は、この世界では聞くことが難しいということです。これは、帝釈天が仏の名を称えた狐を師としたことが、その証拠と言えましょう。

いまわれら宿善(シュクゼン)のたすくるによりて、如来(ニョライ)の遺法(ユイホウ)にあふたてまつり、昼夜に三宝の宝号をききたてまつること、時とともにして不退(フタイ)なり。これすなはち法要なるべし。

今我々は、過去世の善行の助けによって、釈尊の残されたみ教えに会うことができ、昼夜に仏、法、僧という三宝の尊い呼び名を聞いて止む時がありません。これが仏法の大切なところなのです。

天魔波旬(テンマ ハジュン)、なほ三宝に帰依したてまつりて患難(ゲンナン)をまぬかる。いかにいはんや余者(ヨシャ)の、三宝の功徳(クドク)におきて、積功累徳(シャック ルイトク)せらん、はかりしらざらめやは。

天界の魔王でさえ、三宝に帰依して悩み苦しみを免れるのです。ましてその他の者が、三宝の功徳を積み重ねたならば、その果報は計り知れないことでしょう。

おほよそ仏子(ブッシ)の行道(ギョウドウ)、かならずまづ十方の三宝を敬礼(キョウライ)したてまつり、十方の三宝を勧請(カンジョウ)したてまつりて、そのみまへに焼香散華(ショウコウ サンゲ)して、まさに諸行(ショギョウ)を修(シュ)するなり。これすなはち古先(コセン)の勝躅(ショウチョク)なり、仏祖(ブッソ)の古儀(コギ)なり。

およそ仏弟子の仏道修行とは、必ず最初に、十方の三宝を恭敬礼拝して十方の三宝をお迎えし、その御前で香を焚き、華を散らして供養してから、まさに様々な行を修めるのです。これは古聖先哲が行ってきた勝れた足跡であり、仏や祖師の古来の決まりなのです。

もし帰依三宝の儀いまだかつておこなはざるは、これ外道(ゲドウ)の法なりとしるべし、または天魔の法ならんとしるべし。仏仏祖祖(ブツブツ ソソ)の法は、かならずそのはじめに帰依三宝の儀軌(ギキ)あるなり。

もし、三宝に帰依する儀式を一度も行ったことがないのであれば、これは外道の法であると知りなさい。又は、人を惑わす天魔の法であろうとわきまえなさい。仏から仏、祖師から祖師へと伝えられた法は、必ずその初めに三宝に帰依するという儀式があるのです。

  正法眼蔵 帰依三宝 第六
建長七年 乙卯
(キノト ウ)夏安居(ゲアンゴ)の日、先師(センシ)の御草本を以て書写し畢(オワ)る。未だ中書、清書等に及ばず、定んで御再治の時、添削有る歟(カ)、今に於て其の儀、叶ふべからず。仍(ヨ)って御草、此(カク)の如く云う。

  正法眼蔵 帰依三宝 第六
建長七年、夏安居(夏期九十日修行)の日に、先師(師の道元)の残された原稿を書写した。まだ清書されておらず、きっと御病気が治られた時には添削されたことであろう。今ではその事は叶わないので原稿のままである。

弘安二年 己卯(ツチノト ウ)夏安居 五月二十一日、越宇中浜新善光寺に在って之(コレ)を書写す。義雲(ギウン)

弘安二年、夏安居の五月二十一日、越前中浜新善光寺にてこれを書写する。 義雲

 

帰依三宝おわり。

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