帰依三宝(2)

(きえ さんぼう)

はるかに仏果菩提(ブッカ ボダイ)をこころざして、かくのごとく僧那(ソウナ)を始発(シホツ)するなり。しかあればすなはち、身心(シンジン)いまも刹那刹那(セツナ セツナ)に消滅すといへども、法身(ホッシン)かならず長養して、菩提を成就するなり。

遠く仏の悟りを志して、このように誓願を起こすのです。そうすれば、この身心は今も刹那刹那に消滅しているけれども、自らの法身(仏身)は必ず長く養われて、仏の悟りを成就することが出来るのです。

いはゆる帰依とは、帰は帰投(キトウ)なり、依は依伏(エブク)なり。このゆゑに帰依といふ。帰投の相は、たとへば子の父に帰(キ)するがごとし、依伏は、たとへば民の王に依(エ)するがごとし。いはゆる救済(グサイ)の言(ゴン)なり。

いわゆる帰依とは、帰は帰投(身心を投げ出してつき従うこと)であり、依は依伏(たよって従うこと)です。このために帰依というのです。帰投の姿は、例えば子が父につき従うようであり、依伏は民衆が国王に従うようなものです。これはいわゆる救済の言葉なのです。

仏はこれ大師なるがゆゑに帰依す、法は良薬なるがゆゑに帰依す、僧は勝友なるがゆゑに帰依す。

仏は大いなる師であるから帰依するのです、仏の法は煩悩を癒やす良薬であるから帰依するのです、仏の僧団は優れた友であるから帰依するのです。

問う、「何が故にか偏(ヒトヘ)に此(コ)の三に帰するや。」
答ふ、「此の三種は、畢竟帰処
(ヒッキョウ キショ)なるを以て、能(ヨ)く衆生(シュジョウ)をして生死(ショウジ)を出離(シュツリ)し、大菩提(ダイボダイ)を証せしむるが故に帰す。此(コノ)三、畢竟不可思議功徳(ヒッキョウ フカシギ クドク)なり。」

問う、「なぜひたすらに、この三種に帰依するのですか。」
答え、「この三種は、要するに人々の帰着する所であり、よく人々の生死輪廻を解き放ち、大いなる悟りを得させるから帰依するのです。この三種には、つまり不可思議な功徳があるのです。」

仏は西天(サイテン)には仏陀耶(ブッダヤ)と称す、震旦(シンタン)には覚と翻(ホン)す。無上正等覚なり。法は西天には達磨(ダルマ)と称す、また曇無(ドンム)と称す。梵音(ボンノン)の不同なり。震旦には法と翻す。

仏のことをインドではブッダヤと呼び、中国では覚(覚者)と翻訳しています。覚は無上正等覚であり、この上ない正しい悟りの意です。法のことをインドではダルマと呼び、またドンムと呼んでいます。これは梵語(インドの言語)の音の不同によります。これを中国では法と翻訳しています。

一切の善 悪 無記(ムキ)の法、ともに法と称すといへども、いま三宝のなかの帰依するところの法は、軌則(キソク)の法なり。

すべての善、悪、無記(善でも悪でもない)の法を、共に法と呼んでいますが、今 三宝(仏、法、僧団)の中の帰依するところの法とは規則の法です。

僧は西天には僧伽(ソウギャ)と称す、震旦には和合衆(ワゴウシュ)と翻す。かくのごとく称讃(ショウサン)しきたれり。

僧団は、インドではソウギャと呼び、中国では和合衆と翻訳しています。インドや中国では、このように三宝を称賛してきたのです。

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