道元禅師 正法眼蔵 現代訳の試み

供養諸仏(1)

(くよう しょぶつ)

仏の言(ノタマ)はく、「若(モ)し過去世(カコセ)無くんば、応(マサ)に過去仏(カコブツ)無かるべし。若し過去仏無くんば、出家受具(シュッケ ジュグ)無けん。」

仏(釈尊)の言うことには、
「もし過去の世が無ければ、過去の仏も無かったであろうし、もし過去の仏が無ければ、出家受戒も無かったであろう。」と。

あきらかにしるべし、三世(サンゼ)にかならず諸仏ましますなり。しばらく過去の諸仏におきて、そのはじめありといふことなかれ、そのはじめなしといふことなかれ。もし始終の有無(ウム)を邪計せば、さらに仏法の習学にあらず。

この言葉から明らかに知られることは、三世(過去 現在 未来)には必ず諸仏が居られるということです。しかし、一先ず過去の諸仏に、諸仏の始めがあると言ってはいけないし、その始めは無いとも言ってはいけません。諸仏の始めと終わりの有無について邪まに推し量ることは、仏法の習学ではないのです。

過去の諸仏を供養したてまつり、出家し随順したてまつるがごとき、かならず諸仏となるなり。供仏(クブツ)の功徳(クドク)によりて作仏(サブツ)するなり。

過去の諸仏を供養し、出家して随順すれば、必ず諸仏となるのです。仏を供養する功徳によって仏となるのです。

いまだかつて一仏をも供養したてまつらざる衆生、なにによりてか作仏することあらん。無因作仏(ムイン サブツ)あるべからず。

未だ曾て一人の仏をも供養しなかった衆生(人々)が、どうして仏になることがありましょうか。原因が無くて仏になることなどありえないのです。

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