三時業(13)

この恒修善行(ゴウシュ ゼンギョウ)のひと、順後次受(ジュンゴジジュ)のさだめてうくべきが、わがみにありけるとおもふのみにあらず、さらにすすみておもはく、一身の修善(シュゼン)も、またさだめてのちにうくべし。ふかく歓喜すとはこれなり。

この常に善行を修めた人は、順後次受の報いを必ず受ける悪業が自分自身にあったと思うばかりでなく、更に、一身に修めた善行の果報も必ず後に受けるだろう、と思ったのです。この人が深く喜んだ理由はこれなのです。

この憶念まことなるがゆゑに、地獄の中有(チュウウ)すなはちかくれて、天趣の中有たちまちに現前して、いのちをはりて天上にうまる。

この思い起こした事が事実だったので、地獄の中有はすぐに消えて、天界の中有がたちまち現れ、命が終わると天上界に生まれました。

この人もし悪人ならば、命終(ミョウジュウ)のとき、地獄の中有現前せば、おもふべし、「われ一身の修善、その功徳なし、善悪あらんには、いかでかわれ地獄の中有をみん。」このとき因果を撥無(ハツム)し、三宝を毀謗(キボウ)せん。

この人がもし悪人なら、命の終わる時に地獄の中有が現れば思うことでしょう。「私が一身に修めた善行には功徳がなかった。善悪というものがあれば、どうして私が地獄の中有を見ることになるのか。」と。この時に因果の道理を否定し、三宝(仏と法と僧)を謗ることでしょう。

もしかくのごとくならば、すなはち命終し、地獄におつべし。かくのごとくならざるによりて、天上にうまるるなり。この道理、あきらめしるべし。

もしそのようであれば、命が終わって地獄に堕ちることでしょう。この人はそのように思わなかったので、天上界に生まれたのです。この道理を明らかに知りなさい。

作悪行(サアクギョウ)の者は、臨命終の時に順後次受の善業力(ゼンゴウリキ)の故に、欻(タチマ)ちに天趣の中有ありて現前せり。

常に悪行を為していた者は、命の終わる時に順後次受の善業力によって、たちまち天界の中有が目の前に現れました。

便ち是の念を作さく、我一身の中に常に悪行を作して、未だ嘗て善を修せず。応に地獄に生まるべし。何の縁にて此の中有ありて現前するや。

そこで、自ら思うに、「私は一身の中に常に悪行を為して、未だ善を修めたことは無い。ならば地獄に生まれるはずである。何の因縁でこの天界の中有が現れたのだろうか。」と。

遂に邪見を起こして、善悪及び異熟果を撥無す。邪見力(ジャケンリキ)の故に、天趣の中有 尋(ツ)いで即ち陰歿(オンモツ)し、地獄の中有 欻爾(タチマチ)に現前し、此れ従り命終して、地獄に生ぜり。

そこで誤った考えを起こして善悪やその果報を否定しました。するとその不正な考えのために、天界の中有はすぐに消えて地獄の中有がたちまち現れ、命が終わると地獄に生まれました。

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