三時業(14)

この人、いけるほど、つねに悪をつくり、さらに一善を修せざるのみにあらず、命終のとき、天趣(テンシュ)の中有(チュウウ)の現前(ゲンゼン)せるをみて、順後次受をしらず。

この人は生きている間、常に悪業をつくり、少しも善行を修めなかっただけでなく、命が終わる時に、天界の中有が現れたのを見て、それが順後次受の報いであることを知りませんでした。

「われ一生のあひだ、悪をつくれりといへども、天趣にむまれんとす、はかりしりぬ、さらに善悪なかりけり。」

そこで、「私は一生の間、悪業をつくってきたが、今 天界に生まれようとしている、これを推し量るに、全く善悪というものは無い。」と考えました。

かくのごとく善悪を撥無(ハツム)する邪見力(ジャケンリキ)のゆゑに、天趣の中有たちまちに陰歿(オンモツ)して、地獄の中有すみやかに現前し、いのちをはりて地獄におつ。これは邪見のゆゑに、天趣の中有かくるるなり。

このように善悪を否定する誤った考えによって、天界の中有はたちまち消えて、すぐに地獄の中有が現れ、命が終わると地獄に堕ちました。これは不正な考えを起こした為に、天界の中有が消えたのです。

しかあればすなはち、行者(ギョウジャ)かならず邪見なることなかれ。いかなるか邪見、いかなるか正見(ショウケン)と、かたちをつくすまで学習すべし。

ですから、修行者は決して誤った考えを起こしてはいけません。誤った考えとは何であるか、正しい見方とは何であるかと、一生学習しなさい。

まづ因果を撥無し、仏法僧を毀謗(キボウ)し、三世および解脱を撥無する、ともにこれ邪見なり。

先ず因果を否定し、仏と法と僧を謗り、三世(過去 現在 未来)や煩悩の解脱を否定することは、皆誤った考えです。

まさにしるべし、今生(コンジョウ)のわがみ、ふたつなし、みつなし。いたづらに邪見におちて、むなしく悪業(アクゴウ)を感得せむ、をしからざらむや。

まさに知ることです、今生の我が身は、二つあるのでも、三つあるのでもありません。その我が身が徒に誤った考えに堕ちて、空しく悪業を感受することになれば、惜しいことではありませんか。

悪をつくりながら悪にあらずとおもひ、悪の報あるべからずと邪思惟(ジャシユイ)するによりて、悪報の感得せざるにはあらず。

悪業をつくりながらそれを悪と思わず、悪の報いなど無いと考えていても、悪の報いを受けないことはないのです。

悪思惟によりては、きたるべき善根も、転じて悪報のきたることもあり。悪思惟は無間(ムゲン)によれり。

悪しき考えによっては、来るはずの善い果報も、悪い果報に変わることがあります。悪しき考えは、すぐに地獄に堕ちる原因なのです。

三時業(13)へ戻る

三時業(15)へ進む

ホームへ