道元禅師 正法眼蔵 現代訳の試み

四馬(1)

(しめ)

  世尊(セソン)一日(イチジツ)、外道(ゲドウ)仏の所(ミモト)に来詣(キタ)りて、仏に問う、「有言(ウゴン)を問はず、無言(ムゴン)を問はず。」
世尊 拠座
(コザ)、良(ヤ)や久しうしたまふ。

  ある日、世尊(釈尊)の所に外道がやって来て、世尊に尋ねた。
「言ってはいけません。言わなくてもいけません。どうか言葉を使わずに法を説いてください。」と。
すると世尊は、その座に着いたまま無言でじっとしていた。

外道 礼拝(ライハイ)し讃歎(サンタン)して云(イ)はく、
「善哉
(ヨイカナ)世尊、大慈大悲(ダイズ ダイヒ)、我が迷雲を開き、我をして得入(トクニュウ)せしむ。」乃(スナハ)ち作礼(サライ)して去る。

それを見た外道は、世尊を礼拝し賛嘆して言った。
「世尊、有り難うございます。あなたの大慈大悲のお示しは、私の迷雲を晴らして、私を悟りに導いてくださいました。」  そう言うと外道は礼拝して去って行った。

外道 去り已(オワ)って、阿難(アナン)(ツ)いで仏に白(モウ)して言(モウ)さく、「外道 何の所得を以てか、而(シカ)も得入すと言ひ、称讃して去るや。」
世尊 云
(ノタマ)はく、「世間の良馬(リョウメ)の、鞭影(ベンエイ)を見て行くが如(ゴト)し。」

外道が去ると、阿難はすぐに仏(釈尊)に尋ねた。
「あの外道は何を得て、悟ることが出来たと言って称賛したのでしょうか。」
世尊は答えた、「あの外道は、世の良馬が御者の鞭の影を見て道を行くように、法を悟ったのである。」と。

  祖師西来(ソシ セイライ)よりのち、いまにいたるまで、諸善知識(ショ ゼンチシキ)おほくこの因縁(インネン)を挙(コ)して、参学のともがらにしめすに、あるひは年載(ネンサイ)をかさね、あるひは日月(ジツゲツ)をかさねて、ままに開明(カイメイ)し、仏法に信入するものあり。これを外道問仏話(ゲドウ モンブツ ワ)と称す。

  祖師 達磨が中国に来てから今日に至るまで、多くの正法の師がこの因縁を取り上げて、仏道を学ぶ仲間に示し、ある者は年数を重ねて、又ある者は月日を重ねて悟りを開き、仏法に入信しました。これを外道問仏の話と言います。

しるべし、世尊に聖黙 聖説(ショウモク ショウゼツ)の二種の施説(セセツ)まします。これによりて得入するもの、みな如世間良馬見鞭影而行(ニョ セケン リョウメ ケン ベンエイ ニ ギョウ)なり。聖黙 聖説にあらざる施説によりて得入するも、またかくのごとし。

この話から、世尊には聖なる沈黙と聖なる言説という二つの説法があることを知りなさい。これによって悟る者は、皆 鞭の影を見て道を行く良馬なのです。聖なる沈黙と聖なる言説以外の説法によって悟る者も、また同様なのです。

 龍樹祖師(リュウジュ ソシ)(イワ)く、「人の為に句を説く、快馬(カイバ)の鞭影を見て、即ち正路(ショウロ)に入(イ)るが如し。」

龍樹祖師の言葉に、「人のために教えを説くことは、優れた馬が、鞭の影を見て正しい道を行くようなものである。」とあります。

 あらゆる機縁(キエン)、あるひは生 不生(ショウ フショウ)の法をきき、三乗 一乗の法をきく、しばしば邪路(ジャロ)におもむかんとすれども、鞭影しきりにみゆるがごときは、すなはち正路にいるなり。

世のあらゆる機会因縁の中で、或は仏法の生 不生の教えを聞き、或は三乗(声聞の乗り物、縁覚の乗り物、菩薩の乗り物)一乗(仏の乗り物)の教えを聞けば、たびたび邪道に向かいそうになっても、その教えの鞭の影が頻りに見えて、正しい道を行くようになるのです。

もし師にしたがひ、人にあひぬるがごときは、ところとして説句にあらざることなし、ときとして鞭影をみずといふことなきなり。

そして、もし正法の師に会って付き従うならば、場所として説法の言葉でないものはなく、時として教えの鞭の影を見ないということはないのです。

即座(ソクザ)に鞭影を見るもの、三阿僧祇(サン アソウギ)をへて鞭影をみるもの、無量劫(ムリョウコウ)をへて鞭影をみ、正路にいることをうるなり。

このように、ただちに鞭の影を見て、或は三阿僧祇という時を経てから鞭の影を見て、或は無量劫という長い時を経てから鞭の影を見て、正しい道に入ることが出来るのです。

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