四馬(3)

(しめ)

  大経(ダイキョウ)に曰(イハ)く、
「仏の言
(ノタマ)はく、復(マタ)次に善男子(ゼンナンシ)、調馬(チョウメ)の者の如(ゴト)き、凡(オヨ)そ四種有り。

大般涅槃経(ダイハツネハンギョウ)には次のように説かれている。
「仏(釈尊)は言われた。また善男子よ、馬の調教者には、凡そ四つの方法がある。

一つには触毛(ソクモウ)、二つには触皮(ソクヒ)、三つには触肉(ソクニク)、四つには触骨(ソクコツ)

一は毛に触れる。二は皮に触れる。三は肉に触れる。四は骨に触れることである。

(ソ)の触るる所に随って、御者(ギョシャ)の意に称(カナ)ふ。如来も亦(マタ)(シカ)なり、四種の法を以て、衆生(シュジョウ)を調伏(チョウブク)したまふ。

このように、馬は触れる所に応じて御者の意に叶うのである。仏も又このように、四つの法で人々の心を調え悪を制するのである。

一つには為に生(ショウ)を説きたまふに、便(スナハ)ち仏語を受く。其の毛(モウ)に触れて御者の意に随ふが如し。
二つには生老
(ショウロウ)を説きたまふに、便ち仏語を受く。毛皮(モウヒ)に触れて御者の意に随ふが如し。
三つには生 及び老病
(ロウビョウ)を説きたまふに、便ち仏語を受く。毛皮肉(モウヒニク)に触れて御者の意に随ふが如し。
四つには生 及び老病死
(ロウビョウシ)を説きたまふに、便ち仏語を受く。毛皮肉骨(モウヒニクコツ)に触れて御者の意に随ふが如し。

一は、人々に生(生まれること)を説いて、そこで仏の言葉を受け取る者あり。これは毛に触れて、御者の意に従うようなものである。
二は、生と老を説いて、そこで仏の言葉を受け取る者あり。これは毛と皮に触れて、御者の意に従うようなものである。
三は、生と老と病を説いて、そこで仏の言葉を受け取る者あり。これは毛と皮と肉に触れて、御者の意に従うようなものである。
四は、生と老と病と死を説いて、そこで仏の言葉を受け取る者あり。これは毛と皮と肉と骨に触れて、御者の意に従うようなものである。

善男子、御者の馬を調ふる、決定(ケツジョウ)有ること無し。如来世尊、衆生を調伏したまふ、必定して虚(コ)ならず。是の故に仏を調御丈夫(チョウゴジョウブ)と号したてまつる。」

善男子よ、御者の馬の調教は必ず出来るとは限らないが、仏が人々の心を調えて悪を制することには、必ず虚しいことはない。このために仏を調御丈夫(丈夫の調御者)と呼ぶのである。」と。

  これを涅槃経(ネハンギョウ)の四馬となづく。学者ならはざるなし。諸仏ときたまはざるおはしまさず。ほとけにしたがひたてまつりてこれをきく。

  これを涅槃経の四馬と言います。仏道を学ぶ者でこれを学習しない人はいませんし、諸仏でこれを説かれない仏は居られません。ですから仏に従ってこの四馬を尋ねるのです。

ほとけをみたてまつり、供養したてまつるごとにはかならず聴聞(チョウモン)し、仏法を伝授するごとには衆生のためにこれをとくこと、歴劫(リャッコウ)におこたらず。

仏にお会いし、供養申し上げる度に、必ず四馬を聴聞し、仏法を伝授する度に、人々のためにこの四馬を説いて、永劫に怠ってはなりません。

つひに仏果(ブッカ)にいたりて、はじめ初発心(ショホッシン)のときのごとく、菩薩(ボサツ)、声聞(ショウモン)、人天(ニンデン)、大会(ダイエ)のためにこれをとく。このゆゑに、仏法僧宝種(ブッポウソウボウシュ)不断なり。

そして最後に仏の悟りを得ても、初めて菩提心を起こした時のように、菩薩や声聞、人間界や天上界の法会の人々のために、この四馬を説くのです。これによって、仏法僧の三宝の種子は絶えることが無いのです。

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