四馬(5)

(しめ)

如来(ニョライ) 世尊(セソン) 調御丈夫(チョウゴ ジョウブ)またしかなり。四種の法をもて一切衆生(イッサイ シュジョウ)を調伏(チョウブク)して、必定不虚(ヒツジョウ フコ)なり。

如来、世尊、調御丈夫と呼ばれる釈尊も又そうであり、四つの方法で、すべての人々の心を調え悪を制して、必ず虚しくはないのです。

いはゆる、生(ショウ)を為説(イセツ)するにすなはち仏語をうくるあり、生老(ショウ ロウ)を為説するに仏語をうくるあり、生老病(ショウロウビョウ)を為説するに仏語をうくるあり、生老病死(ショウロウビョウシ)を為説するに仏語をうくるあり。

その四つとは、
一、生を説いて、すぐに仏の言葉を受け取る人がいる。
二、生、老を説いて、仏の言葉を受け取る人がいる。
三、生、老、病を説いて、仏の言葉を受け取る人がいる。
四、生、老、病、死を説いて、仏の言葉を受け取る人がいる、ということです。

のちの三をきくもの、いまだはじめの一をはなれず。世間(セケン)の調馬(チョウメ)の触毛(ソクモウ)をはなれて、触皮肉骨(ソクヒニクコツ)あらざるがごとし。

このように、あとの三つの説法を聞く人も、初めの生の説法を離れることはないのです。それは世間の調教の鞭が、毛に触れないで皮肉骨に触れることはないようなものです。

生老病死を為説すといふは、如来世尊の生老病死を為説しまします。衆生をして生老病死をはなれしめんがためにあらず。生老病死すなはち道(ドウ)ととかず。

仏が生老病死を説くというのは、釈尊の生老病死を人々に説かれるということです。これは人々に生老病死を離れさせるためでなく、生老病死が仏道であると説くのでもなく、

生老病死すなはち道なりと解(ゲ)せしめんがためにとくにあらず。この生老病死を為説するによりて、一切衆生をして阿耨多羅三藐三菩提(アノクタラサンミャクサンボダイ)の法をえせしめんがためなり。

生老病死は仏道であると悟らせるために説くのでもありません。この生老病死を説くことによって、すべての人々に無上の悟りの法を得させようというのです。

これ如来世尊、調伏衆生(チョウブク シュジョウ)、必定不虚(ヒツジョウ フコ)、是故号仏調御丈夫(ゼコ ゴウブツ チョウゴ ジョウブ)なり。

これが「仏は人々の心を調え悪を制して必ず虚しいことはない。このために仏を調御丈夫(丈夫の調御者)と呼ぶのである。」ということです。

正法眼蔵 四馬 第九
建長七年乙卯
(キノト ウ)夏安居日(ゲアンゴビ)、御草案を以て之(コレ)を書写し畢(オワル)。懐弉(エジョウ)一たび校了(コウリョウ)す。

正法眼蔵 四馬 第九
建長七年、夏安居の日に御草案を書写した。懐弉が一度校正をした。

四馬おわり。

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