菩提薩埵四摂法(7)

ひそかにしりぬ、海は海を辞せざるがゆゑに、海をなしおほきなることをなす。山は山を辞せざるがゆゑに、山をなしたかきことをなすなり。明主は人をいとはざるがゆゑに、その衆をなす。衆とは国なり。

ひそかに知るのです。海は海を拒まないから海となって大きくなり、山は山を拒まないから山となって高くなったのです。また、明主は人を嫌わないから、その下に衆が集まるのです。衆とは国のことです。

いはゆる明主とは、帝王をいふなるべし。帝王は人をいとはざるなり。人をいとはずといへども、賞罰なきにあらず。賞罰ありといへども、人をいとふことなし。

いわゆる明主とは、帝王のことです。優れた帝王は人を嫌いません。人を嫌わないけれども、人に賞罰が無いわけではありません。賞罰はありますが、人を嫌うことはないのです。

むかしすなほなりしときは、国に賞罰なかりき。かのときの賞罰は、いまとひとしからざればなり。

昔、人々が正直であった時代には、国に賞罰はありませんでした。その当時の賞罰は、今と同様ではなかったのです。

いまも賞をまたずして道をもとむる人もあるべきなり、愚夫の思慮のおよぶべきにあらず。

今でも褒賞を望まずに道を求める人があってもよいのです。愚かな人には考えられないことでしょうが。

明主はあきらかなるがゆゑに人をいとはず、人かならず国をなし、明主をもとむるこころあれども、明主の明主たる道理をことごとくしることまれなるゆゑに、明主にいとはれずとのみよろこぶといへども、わが明主をいとはざるとしらず。

明主は賢明なので人を嫌いません。人は必ず国をつくり、明主を求める心があるのですが、明主が明主であることの道理を、すべての人が知っていることは希なので、明主に嫌われていないことだけを喜んで、自分が明主を嫌わないことを知らないのです。

このゆゑに、明主にも暗人にも、同事の道理あるがゆゑに、同事は薩埵(サッタ)の行願(ギョウガン)なり。

このように、明主にも道理に暗い人にも同事の道理があるのです。同事は菩薩の誓願なのです。

ただまさに、やはらかなる容顔をもて一切にむかふべし。この四摂、おのおの四摂を具足せるがゆゑに、十六摂なるべし。

ですから、ひたすら柔らかな容顔ですべての衆生に向き合いなさい。この布施 愛語 利行 同事の四摂法は、それぞれの中に四摂法を具えているので、十六摂法になります。

正法眼蔵 菩提薩埵四摂法
仁治 癸卯
(ミズノト ウ)端午日 入宋伝法沙門道元記

菩提薩埵四摂法おわり。

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