四禅比丘(10)

(しぜんびく)

  古徳 云(イ)はく、
「孔丘
(コウキュウ)、姫旦(キタン)の語、三皇五帝(サンコウ ゴテイ)の書の如き、孝以て家を治め、忠以て国を治め、国を輔(タス)け民を利する、只是(タダコレ)一世の内のみにして、過未(カミ)に済(ワタ)らず。未だ仏法の三世を益するに斉(ヒト)しからず。豈(アニ)(アヤマ)らざらんや。」

古聖の言うことには、
「孔丘(孔子)、姫旦(孔子が理想とした聖人、周公旦)の言葉や、三皇五帝(伝説上の理想の皇帝たち)の書物などは、孝によって家を治め、忠によって国を治めて、国を助け民を利することを説いているが、これはただ、一生一代の中だけの教えであり、過去や未来に亘る教えではない。だから仏法の三世(前世 現世 来世)を益する教えとは同等ではないのである。どうか誤らないでもらいたい。」と。

まことなるかなや、古徳の語、よく仏法の至理(シリ)に達せり、世俗の道理にあきらかなり。

この古聖の言葉はまことであり、仏法の正しい道理に達していて、世俗の道理に明るいと言えます。

三皇五帝の語、いまだ転輪聖王(テンリンジョウオウ)のをしへにおよぶべからず、梵王(ボンノウ)、帝釈(タイシャク)の説にならべ論ずべからず。統領(トウリョウ)するところ、所得の果報、はるかに劣(レツ)なるべし。

三皇五帝の言葉は、まだ転輪聖王(三十二の好相を具えた世俗の王)の教えに及ばないものであり、梵天や帝釈天の教えと並べて論じてもいけません。何故なら、統治する場所や得られる果報が、それらよりも遥かに劣っているからです。

輪王(リンノウ)、梵王、帝釈、なほ出家受具の比丘(ビク)におよばず、いかにいはんや如来にひとしからんや。

その転輪聖王や梵天、帝釈天でさえ、出家の戒を受けた比丘(僧)には及ばないのであり、ましてや如来(仏陀)とは同等でありません。

孔丘(コウキュウ)、姫旦(キタン)の書、また天竺(テンジク)の十八大経におよぶべからず、四韋陀(シイダ)の典籍(テンジャク)にならべがたし。

また、孔丘や姫旦の書は、インドのバラモン十八大経には及ばないものであり、その四種のヴェーダの典籍に匹敵するものではないのです。

西天婆羅門教(サイテン バラモンキョウ)、いまだ仏教にひとしからざるなり、なほ小乗声聞(ショウジョウ ショウモン)にひとしからず。あはれむべし、振旦(シンタン)小国辺方にして、三教一致の邪説あり。

そのインドのバラモン教は、今でも仏教と同等ではないし、小乗の声聞の教えとも同等ではありません。哀れに思うことは、中国は小国辺方の地なので、「三教(仏教 儒教 道教)は一致する」というような誤った説が生まれるということです。

第十四祖 龍樹(リュウジュ)菩薩云はく、
「大阿羅漢、辟支仏
(ビャクシブツ)は、八万大劫(ダイコウ)を知る。諸大菩薩、及び仏は、無量劫を知る。」

第十四祖、龍樹菩薩の言うことには、
「大阿羅漢(煩悩を断滅した最高の聖者)や辟支仏(自ら縁起の法を観じて悟りを開いた聖者)は、八万大劫という長い時を知っている。諸大菩薩や仏は、無量劫という無限の時を知っている。」と。

孔老(コウロウ)等、いまだ一世のうちの前後をしらず、一生二生の宿通(シュクツウ)あらんや。いかにいはんや一劫をしらんや、いかにいはんや百劫千劫をしらんや、いかにいはんや八万大劫をしらんや、いかにいはんや無量劫をしらんや。

孔子や老子などは、まだ一生一代の中の前後のことさえ知らないのですから、一生二生の過去世を知る智慧などありましょうか。ましてや一劫という長い時を知っているでしょうか、ましてや百劫千劫を知っているでしょうか、ましてや八万大劫を知っているでしょうか、ましてや無量劫を知っているでしょうか。

この無量劫をあきらかにてらししれること、たなごころをみるよりもあきらかなる諸仏菩薩を、孔老等に比類(ヒルイ)せん、愚闇(グアン)といふにもたらざるなり。耳を掩(オオウ)て三教一致の言(ゴン)をきくことなかれ、邪説中最邪説なり。

この無量劫を明らかに照らして理解すること、自分の手のひらを見るよりも明らかな諸仏諸菩薩を、孔子や老子などと比較することは、愚かで道理に暗いと言っても言い足りません。ですから、耳を覆って「三教は一致する」という言葉を聞いてはいけません。これは邪説の中の最大の邪説なのです。

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