四禅比丘(5)

(しぜんびく)

  曽(カツ)て聞く、人有りて自ら成仏すと謂(オモ)へり。待てども天 暁(ア)けず、為に魔障(マショウ)ならんと謂(オモ)へり。
(ア)け已(オハ)るに、梵王の説法を請(ショウ)するを見ず。自ら仏に非ずと知り、自ら是れ阿羅漢(アラカン)ならんと謂へり。
又 他人に之
(コレ)を罵(ノノシ)られて、心に異念(イネン)を生じ、自ら是れ阿羅漢に非ずと知りぬ。仍(ヨ)って是れ第三果ならんと謂へり。
又 女人を見て欲想
(ヨクソウ)を起こし、聖人(ショウニン)に非ずと知りぬ。此(コ)れも亦(マタ)(マコト)に教相(キョウソウ)を知るに由るが故に、乃(スナハ)ち是(カ)くの如し。

  私は以前、次のような話を聞いた。
「ある人が、自分は仏になったと思った。そこで夜明けを待っていたが、なかなか夜が明けなかったので、悪魔が妨げているのであろうと思った。
そして朝になっても、梵天が自分に説法を求めることはなかった。そこで自分は仏ではないことを知り、ならば自分は一切の煩悩を滅ぼした阿羅漢であろうと思った。
又、他人に罵られて心が乱れ、自分は阿羅漢ではないことを知った。ならば自分は欲望の誘惑を断った第三果の阿那含であろうと思った。
又、女人を見て愛欲の思いを起こし、自分は聖人ではないことを知った。」という。
この話も又、仏の教えをよく知っていたので、このように自分の非を知ることが出来たのである。

  それ仏法をしれるは、かくのごとくみづからが非を覚知し、はやくそのあやまりをなげすつ。しらざるともがらは、一生むなしく愚蒙(グモウ)のなかにあり。生(ショウ)より生をうくるも、またかくのごとくなるべし。

  そもそも仏法を知っている者は、このように自分の非を自覚して、すぐにその誤りを投げ捨てるものです。しかし、仏法を知らない者は、一生を空しく愚かさの中に送り、生を終えて次の生を受けても、また同じような一生を送るのです。

この優婆毱多(ウバキクタ)の弟子は、四禅をえて四果とおもふといへども、さらに我非羅漢(ガヒ ラカン)の智あり。無聞比丘(ムモン ビク)も、臨命終(リン ミョウジュウ)のとき、四禅の中陰(チュウイン)みゆることあらんに、我非羅漢としらば、謗仏(ボウブツ)の罪あるべからず。

この優婆毱多の弟子は、四禅(四つの禅定)を得て四果(四つの聖者の悟り)を得たと思ったけれども、自分はまったく羅漢ではないと知る智慧がありました。前の無聞比丘(教えを聞かない比丘)も、臨終の時に、涅槃に入らずに四禅定の中陰が現れたのを見て、自分は羅漢ではないと知ったならば、仏を謗る罪を犯すことはなかったのです。

いはんや四禅をえてのちひさし、なんぞ四果にあらざるとかへりみしらざらん。すでに四果にあらずとしらば、なんぞあらためざらん。いたづらに僻計(ヘキケイ)にとどこほり、むなしく邪見(ジャケン)にしづめり。

ましてこの比丘は、四禅を得てから久しいのであり、なぜ四果を得ていないことを省みて知ることがなかったのでしょうか。既に四果を得ていないと知っていたのなら、どうして改めなかったのでしょうか。この比丘は、徒に僻見に滞り、空しく邪まな考えに沈んでいたのです。

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