出家功徳(21)

如来 般涅槃(ハツネハン)したまふ時、迦葉菩薩(カショウ ボサツ)、仏に白(モウ)して言(モウ)さく、「世尊、如来は諸根を知る力を具足す、定めて善星(ゼンショウ) 当に善根を断ずべきを知りたまへり。何の因縁を以てか、其の出家を聴(ユル)したまえる。」

釈迦如来が般涅槃(仏が亡くなること)される時、迦葉菩薩は仏にお尋ねになりました。「世尊よ、如来は人々の能力 性質を知る力を具えておられます。ですから、きっと善星が自ら善根を断つことを知っておられたことでしょう。それなのに、なぜ善星の出家を許されたのでしょうか。」

仏の言(ノタマ)はく、「善男子、我 往昔に於いて、初め出家せし時、吾弟 難陀(ナンダ)、従弟 阿難(アナン)、調達多(チョウダッタ)、子 羅睺羅(ラゴラ)、是の如くの等輩(トモガラ)、皆悉く我に随って出家修道せり、我 若し善星の出家を聴さずんば、其の人 次に当に王として王位を紹(ツ)ぐことを得ん。其の力自在にして、当に仏法を壊すべし。是の因縁を以て、我 便ち其の出家修道を聴せり。

仏が答えて言うには、「善男子よ、私が昔出家した頃、我が弟の難陀、従弟の阿難や提婆達多、子の羅睺羅など、これらの者たちが、皆私に従って出家し修道したのである。私がもし善星の出家をゆるさなければ、彼は次に王位を継ぐことになったであろう。そうなれば、彼はその力を思うままにして、仏法を壊してしまうであろうと考えたのである。それで私は善星の出家を許したのである。

善男子、善星比丘(ゼンショウ ビク) 若し出家せずんば、亦 善根を断じ、無量世に於いて、都(スベ)て利益(リヤク)無からん。今出家し已りなば、善根を断ずと雖も、能(ヨ)く戒を受持し、耆旧(ギキュウ) 長宿(チョウシュク) 有徳(ウトク)の人を供養し恭敬(クギョウ)し、初禅乃至四禅を修習せん。是を善因と名づく。

善男子よ、また善星がもし出家しなかったならば、彼は善根が断たれて、未来永劫に利益が無いことであろう。今 彼は出家しているので、善根を断つとしても、戒を保ち、先輩 長老 高徳の僧を供養し敬い、初禅から四禅までの禅定を修めるであろう。これを善因と呼ぶのである。

是の如くの善因、能く善法を生ず。善法既に生ぜば、能く道を修習せん。既に道を修習せば、当に阿耨多羅三藐三菩提(アノクタラ サンミャク サンボダイ)を得べし。是の故にわれ善星が出家を聴す。

この善因は善き法を生じるのである。善き法が生じれば仏道を修めることが出来るのである。仏道を修めれば阿耨多羅三藐三菩提(仏の無上の悟り)を得るであろう。それで私は善星の出家を許したのである。

善男子、若し我 善星比丘の出家受戒を聴さずんば、則(スナワチ)我を称して如来具足十力と為すことを得じ。

善男子よ、もし私が善星の出家を許さなかったならば、人々が私のことを褒めて、如来は優れた能力を具えているとは言わないであろう。

善男子、仏は衆生の善法及び不善法を具足することを観たまう。是の人 是の如くの二法を具すと雖も、久しからずして能く一切の善根を断じ、不善根を具せん。

善男子よ、仏は人々が善きものと善からざるものを具えていることを観察し知っている。この善星も、この二つを具えているが、そのうちにすべての善根を断って、不善の心を起こすことであろう。

何を以ての故に、是の如くの衆生は、善友に親しまず、正法を聴かず、善思惟せず、如法に行ぜず。是の因縁を以て、能く善根を断じ、不善根を具す。

何故なら、このような人は善い友に親しむこともなく、正法を聞くこともなく、善い考えもせず、法のように行じないからである。これらの因縁によって、人は善根を断ち不善の心を生ずるのである。」と。

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